※真面目の皮を被ったネタ記事です
※てかネタ推しでいこうと思ってたのに生半可な同性愛関連知識と自分が屁理屈屋なせいで真面目になってしまった
※タイトル通り竜宮島が同性愛に寛容であることは自明のこととして扱っています。
※一騎→総士を前提に論を進めます(総士の感情はどうであっても話を進められるので無視します)
(11/14追記。
最近「ファフナー ホモ」の検索で辿り着かれることが多かったのと、記事それ自体がなんか恥ずかしくなってしまって一週間下げてました。
検索はネタ的意味なんだろうなー萌えてるわけじゃなくて「面白がりたい」んだろうなーアニメキャラが異性愛者でなさそうなくらいそんな大したことじゃねーよむしろ全員異性愛者なほうが異常だろとか思ってしまってイライラして。
別に検索するくらいいいけど私がそれを観測したくないなと思ったので。
しかし今日ついったー見てたら前回の記事がRTされてきてびっくりしました。
なんか褒めてもらってて嬉しくて、まあホモネタくらい今さら気にすることじゃないかと思い直しました。(だからといって受け入れられるわけじゃないけど)
恥ずかしさを修正してから上げ直そうかと思ったら読みづらいしあまり修正するとこなかったし面倒だしもうすぐ20話始まるしほぼそのまま上げます。
こんな前提でよければ、どうぞ。これを私の意図するところの「ネタ」として読んでくれる人がいたらいいな、と思います。)
それでは。
★竜宮島は同性愛に寛容か?
まず竜宮島が同性愛を受け入れているという根拠を考察します。
登場人物の態度やようすを見てみます。
まず一騎が総士への好意をあけっぴろげすぎです。全く隠そうとしません。
もし竜宮島にホモフォビア(同性愛嫌悪)が存在したり、「皆が皆異性愛者である」という合意があったならこうはいかないでしょう。
少なくとも父親である史彦が否定したならばもっと意識して隠そうとするはずです。
ホモフォビア(同性愛嫌悪)の存在する社会において、人は同性愛者だと疑われる言動を避けたがります。
本当に同性愛者自認である場合でなくとも差別の対象にはなりたくないのが一般でしょう。同性愛者自認であるなら尚のこと。
過度な同性への思慕があると自他に認められた場合、本人によって恋愛感情が否定されます。
人前で堂々と「お前が行くなら俺も行く」などとは間違っても言えないでしょう。
また竜宮島では保守的な家族だけではなく多様な生き方が認められています。
容子さんは婚歴がなく独身でシングルマザーです。
翔子についてアルベリヒド機関から、カノンについてアルヴィスから、それぞれ言わば公的にシングルマザーのお墨付きを貰っているわけです。
シングルマザーであることのハンデや周囲からの奇異の目も特にあるようには見受けられません。
溝口さんは独身で子供もいません。それでも周囲から結婚しろなどの抑圧はなく、のびのび暮らせているようです。
つまり竜宮島は「男女が番って子供を育てる」規範がなく、それ以外の生き方を認める社会が形成されているということです。
そうなると、同性カップルも、ひいては同性愛者個人も、同様に「オカシイ」と言われない環境である可能性が高いのではないでしょうか。
★何故受け入れる環境が出来たか?
では竜宮島は何故同性愛に寛容なのでしょうか? 二つの仮説が考えられます。
単純には、「日本も2100年くらいには同性愛を受け入れている」説。
世界では今LGBT、セクシャルマイノリティの人権問題が急速に注目されつつあり、それは日本でも同様です。
2100年くらいには同性婚が法制化している可能性も充分にあります。
これなら今より理解も進んでいそうです。
では100年後もあまり受け入れられていないと仮定した場合。
そもそも同性愛は日本でどのように忌避されてきたか?
日本で同性愛差別が確立されたのは大正期ですが、そこで差別を正当化してくれるのは、「神への冒涜だ」とする宗教規範ではありませんでした。
『生殖イデオロギー』です。
即ち、「生殖(子作り)こそ生物の至上目的であり」、「性欲の本来の目的は生殖である」とする価値観です。
その目的論的世界について、『性現象論』(加藤秀一)を引用してみます。
性欲があって、男女間の性交が行なわれて、その結果として生殖が起こる(中略)。これは事実である。
ところが、この「結果」という言葉を「目的」という語に入れ替えるなら、話はまったく変わってくるのだ。(中略)
性欲―生殖という出来事の連鎖を、原因―結果という解釈枠組みではなく、手段―目的という解釈枠組みに当てはめる思考は、必ずその出来事そのものに先立って目的を定めた存在を隠し持っている。(中略)
これはいわば、自然そのものに意志を認めるような世界観であろう。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p37-p38/加藤秀一)(中略は引用者による)
つまり「自然」に意志を認め、単に性欲の結果として生殖が起こるのではなく、生殖のために性欲が存在するという解釈。
このような目的論を引くと、「同性愛は子孫を残せない」→「自然に反する」→「異常である」と差別を正当化することができるのです。
ですが、「反する」ような「自然の意志」なんて端からありません。
キリンの首が長いのは単に首の短いキリンが環境に適応できなかっただけで、高い木の葉を食べるために長くなったわけではないのです。
生物の性質には、あらかじめ与えられた方向や、ましてや目的などというものはない。ただランダムに繰り返される突然変異のなかから、環境に適応したものが生き残っていくだけだ。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p39/加藤秀一)
ファフナーの話に戻ります。
特筆すべきは「30年間ほとんどの島民が受胎能力を失っていた」ことです。
ちょっと思考実験になります。
竜宮島では『生殖イデオロギー』が正論面して跋扈できないのです。
子孫を産めない人たちが多数派となることで、産める特権を振りかざして「産めない人間は欠陥だ」と糾弾できなくなったんですね。だって糾弾したら自身も欠陥だと認めなくちゃならないから。
そこでやっと『生殖イデオロギー』が欺瞞だと気づけるはずです。生殖と性行為は必ずしも結び付くものではないし、産めないからといって人間性に欠陥を抱えるわけではないと。
しかしアーカディアンプロジェクトの理念が「日本人と文化の保存」なので当然子孫を残していかねばなりません。
自然受胎が出来ない以上、科学に頼るしかない。
そのため、人工授精技術を発達させ里子制度を整えました。
子供を殖やすのに男女が番って性行為する必要がないのです。
(現代日本にも里子の養子縁組制度はありますが、独身ではまず養親として認められません。竜宮島の里子制度はかなり緩いです)
異性愛と同性愛の相違点は、性行為によって子を成す可能性があるかないか、ただ一点のみです。
竜宮島の場合、その相違点さえ消滅しているわけです。
そんな中「同性愛」が「確認」されると島民は同性愛を差別する論理(生殖イデオロギー)を持たないことに気づき、認識が改まっていったはずです。
竜宮島が同性愛を受け入れる環境になった理由は、おおよそそんなところではないでしょうか。
つまり「2100年くらいには日本も受け入れている」説もしくはこの30年間のどこかで「同性愛」が「確認」されるタイミングがあったのだろう、というのが結論です。
★まとめ
・一騎の総士への思慕が周囲に全く抑圧されていない
・竜宮島は多様な生き方が認められている、同性愛もそのうちのひとつではないか
・竜宮島は30年間受胎能力を失っていたので生殖能力を理由に同性愛を差別できない
・それか単純に未来人の人権意識が高いかの理由で竜宮島は同性愛に寛容なのだろう
さて。
そんな感じで全体的に根拠は薄弱ですがネタということを逃げ道に寛恕ください……。
いくら人工授精制度が発達したと言っても、「自然に」「受胎能力のある男女の性行為によって子供が出来る」ことへの信仰はあるようだし。
ふわふわした「だったらいいな!」って程度の考察でした。あんまり読む人いないだろうしこれでいいのです。
何でこんなことまじめに考えてるんだろうってちらとは思ったけど結局そこに注目したくなるのは私の習い性ですね。
そういえば先日の電通の調査によると人口の3.1%はレズビアンかゲイかバイだそうで。
作中で名前の出てくるキャラが約120人なので、その中の3,4人は同性を恋愛対象にできるということになるのよね。
じゃあ一騎と総士と芹ちゃんと織姫ちゃんがそうでよくね?ってなるよね。
★余談。というか補論?
「同性愛差別って生殖イデオロギーだけじゃなくホモソーシャルからも支えられてるよね?」って話。
今回あえてホモソーシャルにおける男性同性愛者排除理論は無視しました。
何故ならホモソーシャルに必要な「男らしさ」の価値観がファフナーにおいてメタ的に意味をなしていないと判断したからです。
そもそもホモソーシャルとは、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする、男性同士の強い連帯関係のこと」です。(wiki)
ファフナー無印第一期では、「男らしさ」の価値観が竜宮島にも存在していることが確認されます。
広登「そういうのってさー、男らしくないんじゃないのー?」
(『蒼穹のファフナー』第10話)
一騎「遠見。悪いけど、はずしてくれないか」
真矢「え、なんで?」
総士「なんでもだ」
(中略)
真矢「男の子……か」
(『蒼穹のファフナー』第21話)
しかしこちらの時代が進み(2004年→2015年)、EXODUSで制作スタッフは作劇上意図的にジェンダー観を更新してきました。
詳しくは割愛しますが、わかりやすいところで言うと無印第21話とEXODUS第11話を比べれば一目瞭然です。
EXODUSでは今後も「男らしさ」「女らしさ」を強調しないのではと推測できます。
そうなると論を進める根幹が怪しくなってしまいます。「竜宮島にホモソーシャルが存在するか?」というところが。
10年という時を経た結果の錯誤ですね。メタ的に意味をなしていないというのはそういうことです。
よって考慮に入れませんでした。
まあホモソーシャル社会では同性愛の否定によってこそ「男らしさ」が保たれるのですから、自身に同性愛感情があることを積極的に否定していく必要があるわけですが、ファフナーではその気配はゼロです。
「いや別に俺総士を恋愛的に好きなんじゃなくてね」等という“弁解”を一騎は一切しません。
またホモソーシャルには女を獲得できない男を劣等として扱う性質もありますが、溝口さんが独身でのびのびしていられるところを見ても、やはりホモソーシャル価値観は薄いのではないかと考えられます。
メタなこと言い出したら切りがないし、「竜宮島は現実日本の都会の価値観を反映してるけど良いとこ取りで都合の悪い価値観は無視」と言いたいのが正直なところですが。
なのでホモソーシャルの同性愛排除を考慮しなかったのは単純に情報が少ないからという点もあります。
ともあれ「ファフナーと竜宮島と異性愛至上主義」については今後とも追いかけていきたいと思います。
↓引越し。内容はまったく同じ。
『蒼穹のファフナー』竜宮島は何故同性愛に寛容か?