引用部分色つき太字。
今記事は『アイツの大本命』7巻のネタバレを含みます。
結構前からやってみたかったことをやっと決行。
私は意識してBL読み始めてからまだ2年ほどなんだけど、セクシャリティ的に気になる表現によく出会う。
読者を萌えさせることが一番の目的でしょうに、萎えることもしばしばです。
なので日頃BL読んでて気になった不満やらを発散したいなと。
もちろん不満だけでなく「素晴らしい!」って思ったこともあるんで紹介するよ。
そしてふたつ注意を。
これから書くことは、単に「私が」気になったことであって、セクシャルマイノリティ全体を代表する言葉ではないこと。
マイノリティだろうがマジョリティだろうが一人一人考え方捉え方全然違います。
それから、表現に批判はしても、作者・作品そのものを否定する記事ではないこと。
偏見の言葉の背景には、その偏見を刷り込んだ社会事情があり、作品表現は意識的にせよ無意識的にせよ社会を反映した結果だと私は考えているからです。
大好きな作品でも不快な表現に出くわすことはあるってだけ。
以上を踏まえてどうぞ。
まず、「ホモ」。とりあえず差別用語ですね。
まあ「ホモ」だろうと「ゲイ」だろうと文脈によって快不快全然変わってくるから、普段は気にしない。
「乙女系↑」
「そしてホモ」(『刺青の男』阿仁谷ユイジ p13)
しかしこの、コマ外の作者コメント「そしてホモ」。いらなくね、このコメントいらなくね。
異性愛者のキャラ出して「そしてヘテロ」なんて言ってもなんも面白くないでしょ。
男が乙女でホモだから面白いって思って書いたんでしょ。腹立つ。
(腐女子の使う「ホモ」のミソジニーと抑圧性について指摘してる論も存在しますけどね)
次、「性的嗜好」。
「もうその年にはマスターベーションをする時にはっきりと自分の性的な嗜好が少数派に属する事は分かっていて」(『1限めはやる気の民法』2巻よしながふみ p185)
これについてはもう様々な意見がある。
「同性愛は趣味じゃない、性的指向だ」
「それは他の性的嗜好差別だ」
「他と一緒にしてしまうと同性愛の問題がわかりにくく解決しにくくなるから政治的に分けてるだけ」
とか本当様々。
"性的指向/嗜好"は区別されるべきなのか
指向と嗜好、同性愛に"原因"は必要か。
私自身は、「異性愛も性的嗜好と認識される社会だったら嗜好と言える」派。
とはいえ正式な論文やLGBTについて述べた文書とかで無批判に採用されてなければちょっと目に留まる程度なんだけど。
「ノーマルに生きてきた人間が男の体をどこまで相手にするつもりでいたのか」(『彼のバラ色の人生』秀良子 p67)
単語だけで問答無用に不快になるのは「ノーマル」くらいですね、私は。
異性愛者だけが正常で、同性愛者をアブノーマル、異常者と認識し、排除する言葉。
「ノマカプ」とか「NL」とかも嫌い。
だから「ヘテロ」を使ってくれる作家さんはそれだけで好きになるのよね。
「個人の性癖は自由でしょう」(『捨てていってくれ』高遠琉加 p21)
これも「性的嗜好」同様異性愛者もまとめて「性癖」と呼んでくれるなら私は別に良いんですけど、言葉だけでも不快になる人はいるね。
「さすがに健全に彼女を持つ荘一に、同性を好きになるような要素がこれっぽっちもないことは、侑央もよくわかっているのだろう」(『いとし、いとしという心2』かわい有美子 p18)
「健全に彼女を持つ」。異性と交際したら健全。同性とは不健全。「ちゃんと」とか「正しい」とか色々派生するね。
そして戸籍上の異性と付き合ったらそれだけで「異性愛者」と断定される異性愛至上主義。
次。BLでなくともあっちこっちで見かける表現、第一位。(いや今までのもBLに限らず見かけるけどね)
(『SUPER LOVERS』あべ美幸 6巻p36,p37)
ニューハーフを記号的に示すこの手の甲を頬に当てるポーズ。
状況的にここでこのポーズ取ってるのは不自然すぎる!
ええ、ええ、記号的にわかりやすいから描いちゃったんだよね! それってステロタイプの助長だよね!
そして女装してる人に対して左のドン引き反応な。
対して下のような描き方はすっごい好き!
「矢野さんはコッチの方ですか?」
「は? いやどっちかっつーとこっちだな」(『東京心中(上)』トウテムポール p64)
本人にいきなりそういうこと聞いて礼を失してんのにサラッとかわせるかっこよさ。
現実でもこういう切り返ししてるMtFの方の話とか聞いたことあるし、すごい素敵な社会反映だ。
そもそも「ソッチ」「コッチ」って本当にどこだよって話よね。
どうして切り分けてしまうのか。なんて、私だって分けたい時あるけど。
そんでヘテロ主義の世界で生きてると、キャラ設定に詰めの甘さを見せてしまうんです。
「――岡田さんてそっちのシュミあんの?」(『嵐のあと』日高ショーコ p88)
この人はゲイ自認。……「そっち」???
この人はどこにいるつもりなんだろう。ゲイ自認のキャラなのに「そっち」側にいる自覚のない人なんだろうか。コモンセンス的に「そっち」が主流だから使ってるんだろうか。
そういう解釈もできるけど、ここは作者の意識問題じゃないかと思われますね。詰めの甘さ。
あと「シュミ」な。
これも「性的嗜好」「性癖」同様、異性愛もそう言ってくれたらいいなって思うんだけど。
「なにあれおもしれー ちゅーすんじゃね?」
「写メってツイッターに流しちまえ BLだBL」(『部活の後輩に迫られています』腰乃 p137)
これ、超こわい。
なんで男二人が絡んでるだけで赤の他人に面白がられTwitterに流されなきゃいけないんだろう。
実際に男体同士が手を繋いでる盗撮写真を面白がって流してる人とかを思い出してしまうと本当にこわい。
でもこれがギャグ表現となってしまえる世の中なんですよね。
同性カップルも街に溶け込めばいいのになー、とは、思うだけ思うけども……。(もちろん公序良俗乱すのはいかんと思いますよ。言わなくてもいいことなんだけどこれ)
「みいくんが、本当に好きな子なら男でもしていいってゆってた」
「悪影響!」
「さっき理解ある風だったじゃん…」
「別っしょ」(『いとしの猫っ毛』雲田はるこ 2巻p132)
弟カップルに影響されて、息子が男とキスしたのを怒る姉。
これあるあるなんだろうなー。
「他人はどうでもいいけど自分の子供が同性愛者なのは無理」って人。
「悪」影響、なのよね。そういう人にとっては。
描かれ方としてはギャグっぽい感じだけど深刻だよこれ。
「おとうさまが心配なんだったら私にかまってないでベッドのそばにいればいい
あなたにはできるんだから 息子さん」(『KOH-BOKU』未散ソノオ p135)
こういうのは精神的にクる……。
今の日本じゃ戸籍上同性カップルが家族になれない以上、パートナーが倒れても病室に入れない場合がある。病院側から連絡がくることもない。
正式な家族が見舞いに来てる時、その家族に交際を隠してたり理解が得られてなかったりすると近づくこともできない。
こういう描写、百合じゃ絶対まだできない。今のBLだからこそ。
次ふたつは、同性愛/トランスジェンダー以外のセクシャルマイノリティ表現について。
「だってコイツ女の趣味悪いぜ? あの女二股かけてるだろ!?」
「正確には三股 別にいいんだって お互い知ってるし」
「お前サイテー!!」(『SUPER LOVERS』あべ美幸 2巻p52)
ポリガミーっていうセクシャリティがある。
複数の人とパートナー関係を結ぶライフスタイルを望む人。
一人だけと契約するモノガミーがマジョリティだからポリガミーは非難されがち。
合意の上なのにね。
しかし三人と付き合ってんのは相手の方なのに何でこっちがサイテー呼ばわりされてんのかはまじで疑問。
「間違いない 勢多川は健タンにマジだ」
「!!」
「――ッ どうして大柴なんか…っ!
恋愛の観念すら持たない相手に!」
「ムリだって届かなくたって 恋は恋なんだよ」
「祈ろうぜ
せめて健タンが全うに恋愛できる人間に成長することをさ…」(『ひとりじめボーイフレンド』ありいめめこ p154)
キャラの男友達が集まってる場面。
これ、すっごく惜しい。
男同士だってことをスルーされるとこはすばらしいだいすき。
リアルな描写じゃないって批判も時々起こるけど、私はこういうリアルを望んでるのよ!
しかし「全う(真っ当?)に恋愛できる人間に成長する」って……。
恋愛って、人間的成長過程のうちに盛り込まれちゃってるんだよね。
恋愛至上主義。恋愛する人が「健全」。しなけりゃ異端。
さてやっと最後です。
散々愚痴ったけど、素晴らしいと思った描写でしめます。
「あんたが佐藤くんとつき合ってるからって…
煮たり焼いたり殺したり陰惨にイジメたりするわけないでしょー!!」
「佐藤くんに美人の彼女がいるって噂があっても…
あたし達変わらず公明正大に戦い続けてきたわ!!」
「だから吉田!!
これからだってあたし達…正々堂々とあんたと勝負するわよー!!!」(『アイツの大本命』田中鈴木 7巻p163)
男だからって諦めるでもナメるでも虐めるでもない。
これこそ「男も女も関係ない」!!
いやー、感服ですね。ほんとこういう作品に出会えると気持ちいい。
もっとBLでこういう快適な気分を味わいたい!
……っていう願望を込めた記事でした。
別にBLだけでなく、他のジャンルでも快適になりたいと思いますよ。
セクシャリティ的に気になる表現なんて無数にございますからね。
「異性として好き」とか「MtFが面白おかしく描かれる」とか「彼女or彼氏(同性不可)」とか「妊娠出産したからって女扱い(男やそれ以外と見なされない)」とか「付き合ったらセックスしなきゃ」とか、、、無数に。
敢えてBLに限定したのは、最初に言った通りせっかくの萌えを萎えさせられて悔しいから、が一番大きい。
百合はかの大手石壁に百合の花咲くさんが古今東西レビュー書いてらっしゃるから私の書くことはないなと。
そんな感じで長くなったけどもしここまで読んでくださった方がいるならありがたいです。
最後に繰り返すけどここで書いたことは単なる私個人の感想です。
セクシャリティやジェンダーに関心のある人全てが同じ感想を持つってことは、100%ありえない。
それだけ残して終わります。それでは~。
商業BLにおけるセクシャルマイノリティの表現について
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「守る」という台詞に表象されるヒロイズムの変遷(1)~女性向け作品編~
引用部分色付き。記述西暦は引用部分初出の年です。
『ぼくの地球を守って』21巻『脳内ポイズンベリー』4巻『憂鬱な朝』5巻『いとしの猫っ毛』3巻のネタバレを含みます。
先日『ぼくの地球を守って』を読み返してて、非常に違和感を持ったシーンがあった。
「オレはありすがこの地球に生きてさえいてくれればそれでいい
だから全身全霊をかけて…守りたい」(『ぼくの地球を守って』日渡早紀 1994 21巻p175)
この男、輪は作中で守られてばかりなのね。何せ8歳の子供だし。
ありすを守るために行動したことなんてまるでない。しかも敵もいない状態で一体何から守るの?という感じ。
それでも作中では格好いい決め台詞として描き出してるのよね。ふしぎなことに。
しかして時は流れ、そんな男の自己陶酔ヒロイズムを2014年の少女漫画はぶった斬ってくれる。
『脳内ポイズンベリー』は主人公の"脳内会議"の様子を擬人化してる設定の話。
浮気現場に本彼氏が現れ、呆れて去った後に間男がいけしゃあしゃあとのたまう。
「ごめんね 守れなくてごめんね」(『脳内ポイズンベリー』水城せとな 2014 4巻p84)
その言葉に主人公(脳内メンバー)はすっと冷めるのだ。
「「守る」……?」「やらかしたのは櫻井いちこなんだけど」(『脳内ポイズンベリー』水城せとな 2014 4巻p85)
実体のないヒロイズムとヒロイン願望を無批判に受け入れてた時代は終わり、現代の少女漫画はその化けの皮を剥がせるようになった。
でも「守られたい」ヒロイン願望そのものはなくなったわけじゃなくて、そういうのを好む人たちは乙女ゲームの方に住み分けられ、脈々とその精神性は受け継がれてるのね。
一部の少女漫画にもちゃんと残っている。
「未来さんのことが 好きだからお護りしたいんです」(『あやかし緋扇』くまがい杏子 2011 1巻p75)
「…言いましたよね 今度は俺が守るって」(『王子様になるまで待って』/『KISS』小森みっこ 2012 p163)
でも今守られるだけの女の子は減少してきてて、自己陶酔ヒロイズムをぶった斬るに留まらず、自分より強いはずの男を守りさえするのよね。
『暁のヨナ』『ボクラノキセキ』『恋だの愛だの』はまさにそう。
「あなたが私を守ってくれたように 私もあなたを守るから」(『暁のヨナ』草凪みずほ 2012 9巻p117)
「大丈夫… 私がっ 守るから」(『ボクラノキセキ』久米田夏緒 2011 4巻p126)
「私のした事で椿君を面倒な事に巻き込みたくない 椿君は私が守る」(『恋だの愛だの』辻田りり子 2011 3巻p106)
ではBLではどうか。
「あんたを守れるようになんなきゃ 強い男になんなきゃ」(『ため息の温度』/『夏時間』国枝彩香 2001 p88)
2001年、『ため息の温度』では一体何からどうやって?という独善ヒロイズムがそれまでの少女漫画と変わらない精神性を持っていた。
そして11年後、『憂鬱な朝』。
「何もかも全て暁人様のために――――必ず お守りする」(『憂鬱な朝』日高ショーコ 2012 5巻p34)
あら、変わらない?と思いきや、この後「お守りする」ための計画は当の暁人の手によって破綻する。
守られることなんて望んでいないんだよね。
そして計画を壊された男は自分の思い通りにならないからって怒り縋るのだ。
「お願いですからもう二度と私の邪魔をしないで下さい!!」(『憂鬱な朝』日高ショーコ 2013 5巻p200)
「守る」なんて自分の陶酔を満たすための欺瞞でしかない。
BLでも、少女漫画に通ず独善ヒロイズムの露呈が描かれる。
守る・守られる関係ってひどく非対称なのよ。
対等な関係を放棄し、「守る」と言いさえすれば相手を支配し優位でいられる。その優越感をくるんで正当化していられる傲慢さ。それこそが独善ヒロイズムの正体だ。
だから現代の少女漫画はそうやって守られることに猜疑心を持ち始め、守ることの独善性を暴き出し、その上で守る立場へと上りたがっている。
そして確保したい「守る立場」とは男より優位になることではない。
望むのは確固たる"対等性"だ。
だって『暁のヨナ』も『ボクラノキセキ』『恋だの愛だの』も、女は男を守って尚且つ男からも守られているんだから。
「イル陛下 あなたの心残りは 俺が守る」(『暁のヨナ』草凪みずほ 2009 1巻p130)
守られる立場を完全に捨てるわけじゃない。
対等関係が大事だから。守って優位に立ちたいわけではないから。
守られる弱い立場を打破したいだけだから。
「だから私を守るなんて事もやめて」
「それはっ いいんだって! 俺が守りたいから守るんだ!」
「モトとは対等でいたいんだ!」(『ボクラノキセキ』久米田夏緒 2011 4巻p149)
ゆえに、ただ守るだけでなく守られることで対等を保ってるのよね。
守ることの欺瞞性を知っている。
そこから導かれる結論として、今現在一番対等関係を表現する台詞は、女は「守る」、男は「大事にする」。
「大事にしたい」(『恋だの愛だの』辻田りり子 2011 3巻p132)
「大好き なので 大事にします」(『ボクラノキセキ』久米田夏緒 2012 7巻p70)
「守る」に独善の印象が絡みついてるために、男の「守る」は疑わしくなってしまった。
そうして女を尊重する言葉「大事にする」が「守る」の本意として選ばれるようになってきた、と見れるんじゃないかな。
そんな風に対等を目指す現代女性の表象が、女性向け作品には見て取れる。
そして性の解放を果たせるBLで初めて、ちゃんと大事にし合う、「守る」の対等関係が達成されるのだ。
「オレが唯一守りたいって思える それが恵ちゃんなんだ」(『いとしの猫っ毛』雲田はるこ 2013 3巻p160)
「おれだって守られるばっかじゃヤダよ」(『いとしの猫っ毛』雲田はるこ 2013 3巻p161)

このあと2人はリバ展開に突入する。
つまりそれまで受けと攻めに分かれていた関係が、どちらとも受けにも攻めにもなるってことね。
そこには美しいほど完璧な対等関係の完成がある。
……っていう、女性向け漫画ジェンダー考察をやりたかったんだけど、何しろ娯楽作品には「守る」って台詞が多すぎて色々枝分かれしてしまったのでつづきます。
「守る」という台詞に表象されるヒロイズムの変遷(2)
『進撃の巨人』12巻『ゼーガペイン』12話『魔法少女まどか☆マギカ』12話『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』のネタバレを含みます。
(1) のつづき。
前回は「守る」という台詞の独善性と非対等性を暴き出し、人同士の対等関係を目指す現代の女性向け作品について考察しました。
では女性向けでない作品において、「守る」は現代日本でどう描かれているか?
一ジャンルを築いている"ボーイミーツガール"モノ。
このジャンルは根強く、手強い。主題が「守る男の子と守られる女の子」だからね。
代表作は言わずもがなの『ラピュタ』でしょう。
「シータを助けたいんだ」
「僕がバカじゃなくて力があれば守ってあげられたんだ」(『天空の城ラピュタ』 1986)
パズーはそう言って腹を決め、シータを守れる男に成長する。
1986年、「守る」「守られる」の全肯定。
それから28年経った今はどうなってるのかというと……。
「僕が姫を守るんだ」(『ALDNOAH.ZERO』 2014 アニメ8話)
「守りたい―――…」(『武装錬金』和月伸宏 2005 9巻p113)

「だからおれが守らないと…」(『極黒のブリュンヒルデ』岡本倫 2012 5巻p13)

「千佳を守るんだ……!!」(『ワールドトリガー』葦原大介 2014 8巻p163)

……変わんねえ!!
男の子たちは女の子を超守りたがってる。
前回「守る男の子」として紹介した『あやかし緋扇』『KISS』は全然、上記4作ほど主流じゃないし知名度も高くない。
しかし女性向けでないジャンルでは、有名作でさえこうです。この男の子たちにとって、非対等性なんか取るに足らない、というより思いつきもしないことなんだよね。
男は女を守るべきというマッチョイズムに従っている。
だからボーイミーツガールは手強い。
しかしながら、現在守られるだけのヒロインはむしろ少数派で、大抵は主人公の男の子と一緒に戦ってる。
「守られるばかりじゃ嫌だ!」とくすぶる描写もなされる。
「守られる女の子」からの脱却を示せる社会状況にあるからだ。
けれど女の子たちは大抵男の子を守ろうとまではせずに、強すぎず弱すぎず、男の子のサポートに徹するのが王道、かな。
『BLEACH』、『NARUTO』、『コードギアス』、『天元突破グレンラガン』、『ソードアートオンライン』……なんでもいいけど適当に思いつく男主人公バトル作品は大体それ。
そんな中、女の子が男の子を守る作品も今は増えてきている。
「あなたは死なないわ。私が守るもの」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』 2007)
「皆人さんはどんなことがあっても結が必ず守ります」(『セキレイ』 2008 アニメ2話)
「私は大好きなマスターを守る!」(『そらのおとしものf』 2010 アニメ8話)
「私が多華宮君を守るから」(『ウィッチクラフトワークス』 2014 アニメ1話)
「深水透子は守ってほしがっているのかな?
俺が透子に助けてもらってもいいかな?」(『グラスリップ』 2014 アニメ10話)
「由乃が守ってあげるもの ………ね ユッキー」(『未来日記』えすのサカエ 2006 1巻p80)

彼女らは男より強く、男を守る。
その背景にはまさしくジェンダー規範の弛緩がある。
男社会のマッチョイズムに疲弊した男たちが「守られたい」と切なる悲鳴を上げられるようになったのだ。
ゆえに彼女らはひたすら包容的存在として描かれ、男に守られることはない。
ここに女性向け作品との明確な違いが見られる。
「女性地位向上を目指す二者の対等」を基盤にした女性向け作品の文脈とは違い、「マッチョイズムからの解放と癒し」を求めた結果としての逆転現象だ。
だから非対等に気づかないまま、独善性を指摘されないまま、女の子は男の子を守ろうとしてる。
その「守る」「守られる」の全肯定は、ガールミーツガールすなわち百合作品でも同様。(百合定義の話は措いとくよ!)
「神楽、あの子を守りたい」(『喰霊-零-』 2008 アニメ12話)
「私がサーニャを守るんだあ!」(『ストライクウィッチーズ2』 2010 アニメ6話)
「お前は私が守る」(『悪魔のリドル』 2014 アニメ6話)
ここでの女の子たちも非対等性や独善性には無頓着。せっかく同性で元々が対等のはずなのに。
じゃあこういった作品は、まだ女性向け作品のジェンダー表現まで到達できないんだろうか?
といったら、そんなことはない。
少しずつではあるものの、独善性を指摘し対等を目指す作品も増えていると思う。
『ゼーガペイン』ではヒロインが戦闘要員になろうという時、本人はすぐに戦うことを決めるのに主人公はそれを嫌がるのね。
そんな主人公のヒロインの気持ちを慮らない独善性は、ぴしゃりと跳ね除けられる。
「あいつは俺が守るって決めたんだ!」
「彼女は守られる存在?」
「ああ」
「いいわね……でも、それを決めるのはあなたじゃないわ」(『ゼーガペイン』 2006 アニメ12話)
『まどマギ』は互いが互いを守り合い、救い出そうとする話。
「彼女に守られる私じゃなくて、彼女を守る私になりたい」(『魔法少女まどか☆マギカ』 2011 アニメ10話)
しかしこの台詞は、対等を目指す意味ではけしてない。
全部一人で背負い相手を守ろうとする。つまり優位に立ちたいという願い。
これは女性向け作品では描かれ得ない関係だろうね。
けれどその願いはテレビアニメ編で打ち砕かれ、逆に相手に守られ救われることで終幕する。
そしてこそ劇場版(2013)で互いを守り合おうとする攻防戦が展開され、おどろおどろしい独善性のぶつかり合いが発露するのだ。
「あなたのために」と言いながら……。
「クリスマス。あなたは私が守る。絶対」(『KURAU Phantom Memory』 2004 アニメ2話)
「私がクラウを守るよ。クラウが私を守ってくれるのと同じ。私も……クラウを守りたい」(『KURAU Phantom Memory』 2004 アニメ6話)
『KURAU』では、真摯に対等な2人の関係が描かれてる。
2004年時点でこの台詞を言えたのはひとえに女同士だったからだ。
前述の通り百合でも珍しい描き方ではあるけれど。
『進撃の巨人』では女女の対等も、男女の対等も存在する。
「私はあなたを守る!」(『進撃の巨人』諫山創 2009 1巻p162)


(『進撃の巨人』諫山創 2013 12巻p170)
守り合う男女。
この作者は、恐らく男キャラに女キャラを守るとは言わせないのではないかって期待感がある。
そして女女となると、守られる側が守る側を鼓舞して一緒に立ち向かおうともする。
「また私は守られるの?
ユミル! あなたが私に言った通り私達はもう… 人のために生きるのはやめよう
私達はこれから! 私達のために生きようよ!!」(『進撃の巨人』諫山創 2013 12巻p153-154)


「守られるだけなんて……!」ともどかしがる描写すらない。
つまりそんな意識を持つまでもなく二人は最初から対等であると。
このシーン以前で既に「あなたのために」という言葉の独善性が暴露されているから、それを踏まえた発言によって、無闇なヒロイズムを力強く打ち払っているのだ。
たとえ社会に未だ強固な「守る男の子と守られる女の子」規範が蔓延っているとしても、こういう作品がヒットしてる社会には希望が持てるよね。
そんなこんなで。
今までごちゃごちゃとヒロイズムを批判してきたけど、私は別にそれ自体を否定したいわけじゃないよ。
ただ「あなたのため」がそうであるように、「守る」も独善的で非対等であるという認識を共有できる社会になればいいと思う。
その上で守りたい守られたい願望を美しく昇華できるようになればいいと思う。
だからその過渡期にある現在、「守る」を解体し再構築する作品たちに私は強い希望を持っている。
未来を切り開いてくれる存在として。
余談。
すいませんエヴァとストパンは見たことないです。
解釈が違ってたらごめんなさい。
あとまどマギ叛逆の独善ぶつけ合いについて。あれは髪をいじり合うっていう最高の百合表現で「守る」を演出してるから、台詞での「守る」は見つけられなかった……。
新居昭乃Resonance Zone2014/11/9ライブレポ
セットリスト
1エウロパの氷
2メロディ
3Little Wing
4七つの夢(新)
5ストーントリオ(新)
6Licao do Vento
7VOICES
8Resonance Zone(新)
9月からの祈りと共に
10ルビーの月 ヒスイの海
11Silent Stream
12鏡の国
13Haleakala
14Unknown Vision
15Lost Area
16美しい星
17Sophia~白の惑星
---アンコール---
18虹
会場、大谷資料館に着く。採石場跡だというこの場所。
さ、寒い!!
気温は10度以下。
しかし、それに余りあるだけの、この幻想的なステージ。企画されたファンの方、ナイスすぎる。
ステージを見た瞬間、ああ『エウロパの氷』絶対最初にくるな、と思った。
乾いた土とひっそりとした孤独が、『エウロパ』の世界ぴったりだった。
1エウロパの氷
そして予想的中、テンション上がったよね!
しかもマイクすらないアカペラ。観客300人いないくらい?だったし、この地下空間、音が凄く響き渡るから、余裕で聴こえる。エウロパはアカペラ似合うよねえ。
エウロパ~メロディ~Little Wing~七つの夢の流れ、舞台は木星~月~地球~部屋の中、と、どんどん縮小してく。マクロからミクロへ。でも歌う世界は通底している。だから昭乃さんなんです。
新曲はいつもの昭乃さんでした。不思議な閉鎖された部屋って感じ。朝も闇も内包する。
5ストーントリオ
土の囀り、って印象。土に語りかけるって発想が昭乃さんらしいなあ。
6Licao do Vento
この日の一番の収穫がLicaoでした。
こんな曲解釈があったのかー!
個人的に『凍る砂』みたいな、透明な夢の国で透き通った声を響かせる一人の歌姫、って世界観をイメージしてたんだけど、ガラリと変わった。
映像の古代壁画も合わさって、乾いたプリミティブな情感が剥き出しになって叩きつけられるような、そんな衝撃を受けた。
も、もっかい聴きたい! このLicaoをもっかい聴きたいよ!!
昭乃さんのライブアレンジは、こういう攻撃的な方面の場合、大抵一回こっきりなので非常に残念です……。
7VOICES
最後のエコーが印象的だった。この会場に染み入るよう。
8レゾナンスゾーン
敷き詰められた煉瓦?が破壊されていく映像。
即興曲だそうですが、まーくんのヴァイオリンが攻めるなーと。映像と相まって打毀して突き放すような冷たさがあった。
ま、寒かったからかな?笑
9月からの祈り
そこからのこれですよ!!
あったかい慈愛ですよ……!
月が昇る。崩落した世界の再生を見守る。でも、見つめるだけ。月でも地球でもない宇宙船の中。かな。
10ルビーの月 ヒスイの海
荒廃した砂漠。一転冷たくなったなー一気に雰囲気がステージと共鳴したなーと思って、ふと気づいた。
昭乃さんの曲って寒い場所で聴くべきなんじゃないか??
防寒対策してたけど、少しずつ脱いでみる。
あ、すごくフィーリング合うな! これは収穫。でもずんぐりむっくり着込んだら保刈さん見て余計おかしくなる笑
11Silent Stream
凍てつく『ルビー』から、同じように凍るけれども少し希望の見えるこの曲へ。
映像も呼応するように、最後に光が射し込む。
12鏡の国
この日初めて気づいたんだけど、"鏡の張り巡らされた部屋"って、入ると実際は出口のない閉鎖的な空間なんだけど、一見どこまでも広がってるかのように見えるんだね。
それが、この地下空間と重なった。
閉鎖的なのに、声が、空気が、愛が、広がる。昭乃さん相性よすぎないか。
13Haleakala
14Unknown Vision
からのこの二曲。一気に広がる。世界すべてを賛美して広がる。
あー『Unknoun Vision』、打ち込みじゃなくてドラム入りで生で聴きたい!!
15Lost Area
16美しい星
17Sophia~白の惑星
『Lost Area』から途切れず『美しい星』の流れは定番化しましたねー。
が!
『美しい星』からの『白の惑星』はもしかして初めてじゃない??!
私この記事書いてから切望してた!
まさかここで聴けるとは! 感動……!
青空から遠ざかった地下深くのステージ。閉じ込められた土の中。
青空を乞うて、願いは砕けて、それでも星をかざそう……ってなんだこのシンクロぶりは!!!
実は逆の流れでも聴いてみたいんだけどねー。「世界はこんなに美しい~~~」からの『美しい星』って繋がり、素敵じゃないですか。
最後に、流れ星が三面の壁を伝う。この映像って初出? てかこのステージ用?? もうあんま覚えてないんだけど。
舞台が箱形だから、流れ星は一直線でなく、壁をなぞるように二回屈折して落ちていくの。
ちょっとはっとしたんだよね。世界を賛美するけど、ここという場所は狭い部屋なんだなって。
広がりと閉鎖。前向き且つ内向き。昭乃さんのテーマです。
そして最後のMC、「この歌を地球に捧げます」。
閉ざされた小さな地下の部屋から、「地球」すべてへ、捧ぐことができるんだよ。
18虹
ライブラスト曲でお馴染みの『虹』ですが、何気に照明が虹色だったの初めてでは??
いつもオレンジだよね。
賛歌の側面が強まった気がした。
合唱ですしね!
声が響く会場だから観客皆の声がよく聴こえたな。
町外れの寒い採石場跡、精鋭部隊構成員としてはたいへん満足の素晴らしいライブに立ち合うことができました!
ありがとう!
また長くなってしまった……。
『蒼穹のファフナー EXODUS』における「人間らしさ」とは何か
引用部分色つき太字。
『蒼穹のファフナー EXODUS』13話終了時点での記事です。
『蒼穹のファフナー』において「人間」とはどういう存在か。
フェストゥムという未知の生命体を据えたことで、この作品は繰り返しそのことを問いかけてきました。
それがすなわち「あなたはそこにいますか」というテーマであり、「心を持つ」「個の確立」であったと。
無印第1期『蒼穹のファフナー』での「人間」とは「フェストゥムとは違って心を持ち個を確立する者」でした。
真矢「お父さんはフェストゥムとどう違うの?」(『蒼穹のファフナー』18話)
史彦「フェストゥムは……泣かない」(『蒼穹のファフナー』20話)
といった台詞は、フェストゥムを通して「人間」を定義する言葉です。
『蒼穹のファフナー HEAVEN AND EARTH』では来主操というフェストゥムがその定義を揺るがし、人とフェストゥムの境目を曖昧化させました。
『蒼穹のファフナー HEAVEN AND EARTH』という作品は、フェストゥムが心を持ち個を確立させた物語だったからです。
それゆえに人類軍が核を落とした際には「同じ人間がここにいるんだぞ!」という台詞が繰り出され、人間とフェストゥムの立ち位置を撹乱したのです。
さてそこでEXODUS。
竜宮島、フェストゥム、人類軍の群像劇を描くにあたり再度「人間とは何か?」を問い直すことを余儀なくされました。
もはやフェストゥムと対比させる形で人間を配置させることができなくなったからです。
ではどのように「人間」を描いていくか?
この布石を、今までの13話で敷いてきたのだと思います。
その布石とは何か。
答えはずばり、『にんげんっていいな』でしょう。
にんげんっていいな
「おいしいおやつにほかほかごはん こどものかえりを まってるだろな」
「みんなでなかよくポチャポチャおふろ あったかいふとんで ねむるんだろな」(『にんげんっていいな』作詞山口あかり)
「食」「風呂」「睡眠」。
EXODUSでこれらは繰り返し描写されています。
食に関しては挙げれば切りがないほどですが、『にんげんっていいな』では「おやつ」と「ごはん」が分けられています。
そこで、「ごはん」「睡眠」/「おやつ」「風呂」のふたつに区分してみましょう。
(『蒼穹のファフナー EXODUS』5話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』12話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』6話)
一騎「とりあえず寝るよ」(『蒼穹のファフナー EXODUS』8話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
「ごはん」と「睡眠」は生命を維持するのに欠かせないものです。なければ死にます。
だから10話で真矢は弓子に問いかけたのです。
真矢「お姉ちゃんずっと寝てないんでしょ。何か食べた? 食べるもの持ってこようか」
弓子「いいの。今は必要ないから」(『蒼穹のファフナー EXODUS』10話)
こうして弓子の異質性が浮かび上がります。
また、竜宮島のファフナーパイロットたちに現れた日常のSDP現象ですが、芹は同化能力のせいで食べ物を同化で摂取するようになり、里奈は異常な眠気に襲われ昏睡状態になります。
これは過ぎたるは及ばざるが如し、生命として必要な活動を歪ませることで、異常性と悲壮感を煽る格好の描出だと思います。
そしてショコラも生命活動しているので、「ごはん」も「睡眠」も描かれます。やたら描かれます。
(『蒼穹のファフナー EXODUS』5話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
「ごはん」と「睡眠」に対して、「おやつ」と「風呂」は生命維持という点で必ずしも必要にはなりません。
生きるか死ぬかの瀬戸際では考えられない、生活の余裕がなければできない道楽なのです。
それは取りも直さず人としての心を持つということです。
ファフナーシリーズにおいて、ただ生き延びているだけの状態は良しとされていません。
摂食し睡眠をとり命を保つだけでは人とは言えないのです。
心があってこそ平和を享受でき、平和を享受できてこそおやつを嗜み入浴することができる。
それが人間らしくあれる姿だと謳うのです。
そのため、カノンの好物が甘いものであることは大きな意味を持ちます。
人類軍時代は食事を「栄養の摂取」としか見なしていなかったカノン。
カノン「速やかな栄養の摂取は訓練の基礎だ」(『蒼穹のファフナー』21話)
竜宮島に馴染んで平和な時を過ごしてこれたからこそ、甘いものを楽しむ人間らしい余裕を持てたのです。
一騎「カノンはメロンフロートと……はい」(『蒼穹のファフナー EXODUS』1話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』3話)
カノン「ずっと孤独だった。自分の考えを持つことも諦めていた。でも一騎やお前や島のみんなが私を変えてくれた」(『蒼穹のファフナー EXODUS』3話)
カノンがアイスを食べながらそう言ったのは、まさに「甘いものが好物になるほど島に馴染み心を持てるようになった」ことを表しているのでしょう。
また、美三香に日常SDP現象が現れ始めたときシールド拡大化につれてケーキが遠ざかってしまったのは、言ってみれば平和が遠ざかっていくという演出です。
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
ごはんや睡眠が遠ざかるわけではないので命は守られます。
しかし人としての姿や心は守られなくなっていく、とここで暗示しているのです。
(『蒼穹のファフナー EXODUS』8話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
風呂もまた一種の道楽です。
中世ヨーロッパではほとんど風呂に入らなかったそうで、今でも一生入らない民族も存在します。
理由は充分な水と浄水施設がないからです。
「湯水のように水を使うのは日本くらい」と冲方さんも指摘してましたが、毎日湯船に浸かる竜宮島島民の姿はそのまま平和で豊かな生活を描写していると言えましょう。
第2クール告知PVで派遣組がシャワーを浴びられたのも「安穏のひととき」の表れでしょうね。
まだかれらが心を持てている証です。
つまり。
「人間」でいるためには、命を保つことも人としての姿や心も必要であるということです。
史彦「今は戦いに心と命を奪われない道があると後輩たちに示してやれ」(『蒼穹のファフナー EXODUS』4話)
織姫「島がかれらの命を守っている」「命以外のものまで守られるわけじゃない。人としての姿や心までは」(『蒼穹のファフナー EXODUS』12話)
そうして『蒼穹のファフナー EXODUS』では、人間を「命と心を持つ者」と再定義したのです。
作中繰り返される「命」と「心」の具体的内容とは、「ごはん」「睡眠」「おやつ」「風呂」だと言いたいわけです。
ここまで明確に「人間」を規定する必要があったのは、先に述べたように人間とフェストゥムの相違が曖昧になったからです。
無印(以前)からHAEまでの積み重ねはもちろん、EXODUSでそれは一層深化しました。
総士ばかりか弓子や芹までフェストゥムに生かされているし、エメリーはフェストゥム並みに心を読めるし、島のファフナーパイロットは日常SDPに侵されるし、一騎に至ってはただのシャイニーです。
もはや人とフェストゥムを区別するのも馬鹿馬鹿しくなっているのです。
だからこそ、人とフェストゥムの落としどころを探るために一旦境を明確にすることが不可欠なのです。
そういう意味で、フェストゥムの体を持った総士が物を食べ、
(『蒼穹のファフナー EXODUS』3話)
よく寝て、
(『蒼穹のファフナー EXODUS』9話)
シャワーを浴びる
(『蒼穹のファフナー EXODUS』第2クール告知PV)
のは大事な描写です。
けしてサービスシーンではないんです。けして!
(しかし好きな女の子が突然全裸で降ってきた☆とかのラッキースケベ的シチュエーションを物語上深刻に意味づけて展開できるのすげえよな)
織姫ちゃんは「ごはん」も「睡眠」も「おやつ」も「風呂」も全て描かれています。
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』8話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
(『蒼穹のファフナー EXODUS』11話)
神秘性を保とうとした乙姫ちゃんとは対照的に、その人間らしさを印象付けるための表現だと思います。
アザゼル型同士の食い合い、一騎の「まだ機体に食われたりしない」発言等、今後ともこれらがどう描かれていくか非常に楽しみです。
目下注目すべきは来主操のミールですね。
操は一騎カレーを食べましたが、フェストゥムに食べ物は必要でないので、この行為は「娯楽」という意味のみを持ち得ます。
EXODUSで規定した「人間」を再度撹乱させる可能性をかれは秘めているのです。
さて心を持ったフェストゥムがどう「人間」のものに関わっていくのか。
それが『蒼穹のファフナー EXODUS』の落としどころを探る鍵となりそうです。
……はい。
少女漫画考察とかばっかやってたからこうも考察人口の多い作品でやるのって中々むずむずするね……。
まあ誤読や二番煎じくらいではめげないので別によいのだ、と思いこみながら記事を上げようと思う。
今「竜宮島は同性愛を受容しているか?」という阿呆まじめな記事も書いてるんだけどそっちは私のお家芸なのでもっと気楽に書き上げられそうです。
そういえば、『にんげんっていいな』の「こどものかえりを まってるだろな」の部分、なんかHAEはまさにそういう「帰る場所」がテーマの健気な話だったと思うんですけど、今回シュリーナガル派遣組を島ごと迎えにいこうとしてたり大分アクティブだね? 待ちきれなくなったよね?
「待ってる」って言ったの、5話の芹から広登だけだったか。
第2クール告知PV第1弾で一騎が「ずっと待ってた……ずっと」と発言しているし、待つこともまた(人として)重要であることは確実なようだけど。
まあ「帰る場所」は通底するテーマだ。
追記:
そういえば一騎は寝てるし食べてるけど、風呂とお菓子シーンはもしかするとないかもしれないんだな……。
にんげんやめる可能性のある一騎。目下例のシャワーシーンがあるかどうかに注目ですね。
『蒼穹のファフナー』――竜宮島は何故同性愛に寛容か?
引用部分色付き太字。
※真面目の皮を被ったネタ記事です
※てかネタ推しでいこうと思ってたのに生半可な同性愛関連知識と自分が屁理屈屋なせいで真面目になってしまった
※タイトル通り竜宮島が同性愛に寛容であることは自明のこととして扱っています。一応の補足はするけど
※一騎→総士を前提に論を進めます(総士の感情はどうであっても話が進められるので無視します)
それでは……。
★竜宮島は同性愛に寛容か?
まず竜宮島が同性愛を受け入れているという根拠を考察します。
登場人物の態度やようすを見てみます。
まず一騎が総士への好意をあけっぴろげすぎです。全く隠そうとしません。
もし竜宮島にホモフォビア(同性愛嫌悪)が存在したり、「皆が皆異性愛者である」という合意があったならこうはいかないでしょう。
少なくとも父親である史彦が否定したならばもっと意識して隠そうとするはずです。
ホモフォビア(同性愛嫌悪)の存在する社会において、人は同性愛者だと疑われる言動を避けたがります。
本当に同性愛者自認である場合でなくとも差別の対象にはなりたくないのが一般でしょう。同性愛者自認であるなら尚のこと。
過度な同性への思慕があると自他に認められた場合、本人によって恋愛感情が否定されます。
人前で堂々と「お前が行くなら俺も行く」などとは間違っても言えないでしょう。
では検証。
最初に注意書きしたけど……一応ネタですよ。
本当はこの章だけ記事にして「竜宮島は同性愛に寛容か?」ってタイトルのネタなような真面目なような記事にするつもりだったんだけど、何故か膨らんで逆にこの検証が浮いてしまったのだと言い訳しておきます……。
容子「シリコンナノフィルムのボディにフィラメント状に埋め込まれた感覚素子が同化現象に伴って自在に数、形、位置を変えるんです。そのために全身が溶けたゴムのように感じられてしまうと」
溝口「何で一騎は大丈夫なんだ」
容子「パイロットの精神が適合したとしか……」
千鶴「相手のために自分はこうありたいというより上位の自己意識が一騎くんと総士くんの間で強く働いています。恐らくそれが最大の原因かと思われます」
保「一騎くん一人じゃあそこまで発展しなかった、か」
(『蒼穹のファフナー』第22話)
ここで「そ、そうなんだ……」と引いてる様子の大人は誰一人いません。
みんなラフに神妙に一騎の精神状態を受け入れています。
史彦「クロッシング?」
千鶴「はい。一騎くんが日常的にクロッシング状態にあると判明しました」
史彦「一騎が……敵の側にいる皆城総士と二年もの間繋がり続けていたと?」
(『蒼穹のファフナー HEAVEN AND EARTH』)
尺の都合とはいえ史彦の飲み込みが早すぎます。
「一騎が日常的にクロッシング状態」=「総士と繋がってる」と一瞬で判断できる親の心理。
一騎「父さんたちが作った、フェストゥムを倒すための武器は、多分思ってる以上に俺たちの全部になったよ」
史彦「……馬鹿を言うな。だから人類軍の無謀な作戦に参加させろと言うのか」
一騎「だって、それ以外もうないだろ!」
史彦「一騎!」
一騎「父さんだって、母さんを失った時は同じ気持ちだったんだろ! でも父さんには敵を倒す力がなかった。俺にはある! ファフナーがある!」
(ドラマCD『蒼穹のファフナー GONE/ARRIVE』)
「史彦にとっての紅音」と「一騎にとっての総士」が同等だという。
それを当然の感情だとして一騎は史彦に伝えられるのです。史彦が一騎のその当然の感情を以前から受け入れ共通了解となっていなければできません。
また竜宮島では保守的な家族だけではなく多様な生き方が認められています。
容子さんは婚歴がなく独身でシングルマザーです。
翔子についてアルベリヒド機関から、カノンについてアルヴィスから、それぞれ言わば公的にシングルマザーのお墨付きを貰っているわけです。
シングルマザーであることのハンデや周囲からの奇異の目も特にあるようには見受けられません。
溝口さんは独身で子供もいません。それでも周囲から結婚しろなどの抑圧はなく、のびのび暮らせているようです。
つまり竜宮島は「男女が番って子供を育てる」規範がなく、それ以外の生き方を認める社会が形成されているということです。
そうなると、同性カップルも、ひいては同性愛者個人も、同様に「オカシイ」と言われない環境である可能性が高いのではないでしょうか。
★何故受け入れる環境が出来たか?
では竜宮島は何故同性愛に寛容なのでしょうか? 二つの仮説が考えられます。
単純には、「日本も2100年くらいには同性愛を受け入れている」説。
世界では今LGBT、セクシャルマイノリティの人権問題が急速に注目されつつあり、それは日本でも同様です。
2100年くらいには同性婚が法制化している可能性も充分にあります。
これなら今より理解も進んでいそうです。
では100年後もあまり受け入れられていないと仮定した場合。
そもそも同性愛は日本でどのように忌避されてきたか?
日本で同性愛差別が確立されたのは大正期ですが、そこで差別を正当化してくれるのは、「神への冒涜だ」とする宗教規範ではありませんでした。
『生殖イデオロギー』です。
即ち、「生殖(子作り)こそ生物の至上目的であり」、「性欲の本来の目的は生殖である」とする価値観です。
その目的論的世界について、『性現象論』(加藤秀一)を引用してみます。
性欲があって、男女間の性交が行なわれて、その結果として生殖が起こる(中略)。これは事実である。
ところが、この「結果」という言葉を「目的」という語に入れ替えるなら、話はまったく変わってくるのだ。(中略)
性欲―生殖という出来事の連鎖を、原因―結果という解釈枠組みではなく、手段―目的という解釈枠組みに当てはめる思考は、必ずその出来事そのものに先立って目的を定めた存在を隠し持っている。(中略)
これはいわば、自然そのものに意志を認めるような世界観であろう。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p37-p38/加藤秀一)
「自然」に意志を認め、単に性欲の結果として生殖が起こるのではなく、生殖のために性欲が存在するという解釈。
このような目的論を引くと、「同性愛は子孫を残せない」→「自然に反する」→「異常である」と差別を正当化することができるのです。
ですが、「反する」ような「自然の意志」なんて端からありません。
キリンの首が長いのは単に首の短いキリンが環境に適応できなかっただけで、高い木の葉を食べるために長くなったわけではないのです。
生物の性質には、あらかじめ与えられた方向や、ましてや目的などというものはない。ただランダムに繰り返される突然変異のなかから、環境に適応したものが生き残っていくだけだ。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p39/加藤秀一)
ファフナーの話に戻ります。
特筆すべきは「30年間ほとんどの島民が受胎能力を失っていた」ことです。
ちょっと思考実験になります。
竜宮島では『生殖イデオロギー』が正論面して跋扈できないのです。
子孫を産めない人たちが多数派となることで、産める特権を振りかざして「産めない人間は欠陥だ」と糾弾できなくなったんですね。だって糾弾したら自身も欠陥だと認めなくちゃならないから。
そこでやっと『生殖イデオロギー』が欺瞞だと気づけるはずです。生殖と性行為は必ずしも結び付くものではないし、産めないからといって人間性に欠陥を抱えるわけではないと。
しかしアーカディアンプロジェクトの理念が「日本人と文化の保存」なので当然子孫を残していかねばなりません。
自然受胎が出来ない以上、科学に頼るしかない。
そのため、人工授精技術を発達させ里子制度を整えました。
子供を殖やすのに男女が番って性行為する必要がないのです。
(現代日本にも里子の養子縁組制度はありますが、独身ではまず養親として認められません。竜宮島の里子制度はかなり緩いです)
異性愛と同性愛の相違点は、性行為によって子を成す可能性があるかないか、ただ一点のみです。
竜宮島の場合、その相違点さえ消滅しているわけです。
そんな中「同性愛」が「確認」されると島民は同性愛を差別する論理(生殖イデオロギー)を持たないことに気づき、認識が改まっていったはずです。
竜宮島が同性愛を受け入れる環境になった理由は、おおよそそんなところではないでしょうか。
つまり「2100年くらいには日本も受け入れている」説もしくはこの30年間のどこかで「同性愛」が「確認」されるタイミングがあったのだろう、というのが結論です。
★まとめ
・一騎の総士への思慕が周囲に全く抑圧されていない
・竜宮島は多様な生き方が認められている、同性愛もそのうちのひとつではないか
・竜宮島は30年間受胎能力を失っていたので生殖能力を理由に同性愛を差別できない
・それか単純に未来人の人権意識が高いかの理由で竜宮島は同性愛に寛容なのだろう
さて。
そんな感じで全体的に根拠は薄弱ですがネタということを逃げ道に寛恕ください……。
いくら人工授精制度が発達したと言っても、「自然に」「受胎能力のある男女の性行為によって子供が出来る」ことへの信仰はあるようだし。
ふわふわした「だったらいいな!」って程度の考察でした。あんまり読む人いないだろうしこれでいいのです。
何でこんなことまじめに考えてるんだろうってちらとは思ったけど結局そこに注目したくなるのは私の習い性ですね。
そういえば先日の電通の調査によると人口の3.1%はレズビアンかゲイかバイだそうで。
作中で名前の出てくる島民が約110人(EXODUS13話時点)なので、その中の3,4人は同性を恋愛対象にできるということになるのよね。
じゃあ一騎と総士と芹ちゃんと織姫ちゃんがそうでよくね?ってなるよね。
まあ私エメ美羽推しでもあるのでそうするとオーバーするけど……。
★余談。というか補論?
「同性愛差別って生殖イデオロギーだけじゃなくホモソーシャルからも支えられてるよね?」って話。
今回あえてホモソーシャルにおける男性同性愛者排除理論は無視しました。
何故ならホモソーシャルに必要な「男らしさ」の価値観がファフナーにおいてメタ的に意味をなしていないと判断したからです。
そもそもホモソーシャルとは、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする、男性同士の強い連帯関係のこと」です。(wiki)
ファフナー無印第一期では、「男らしさ」の価値観が竜宮島にも存在していることが確認されます。
広登「そういうのってさー、男らしくないんじゃないのー?」
(『蒼穹のファフナー』第10話)
一騎「遠見。悪いけど、はずしてくれないか」
真矢「え、なんで?」
総士「なんでもだ」
(中略)
真矢「男の子……か」
(『蒼穹のファフナー』第21話)
しかしこちらの時代が進み(2004年→2015年)、EXODUSで制作スタッフは作劇上意図的にジェンダー観を更新してきました。
詳しくは割愛しますが、わかりやすいところで言うと無印第21話とEXODUS第11話を比べれば一目瞭然です。
EXODUSでは今後も「男らしさ」「女らしさ」を強調しないのではと推測できます。
そうなると論を進める根幹が怪しくなってしまいます。「竜宮島にホモソーシャルが存在するか?」というところが。
10年という時を経た結果の錯誤ですね。メタ的に意味をなしていないというのはそういうことです。
よって考慮に入れませんでした。
まあホモソーシャル社会では同性愛の否定によってこそ「男らしさ」が保たれるのですから、自身に同性愛感情があることを積極的に否定していく必要があるわけですが、ファフナーではその気配はゼロです。
「いや別に俺総士を恋愛的に好きなんじゃなくてね」等という“弁解”を一騎は一切しません。
またホモソーシャルには女を獲得できない男を劣等として扱う性質もありますが、溝口さんが独身でのびのびしていられるところを見ても、やはりホモソーシャル価値観は薄いのではないかと考えられます。
メタなこと言い出したら切りがないし、「竜宮島は現実日本の都会の価値観を反映してるけど良いとこ取りで都合の悪い価値観は無視」と言いたいのが正直なところですが。
なのでホモソーシャルの同性愛排除を考慮しなかったのは単純に情報が少ないからという点もあります。
ともあれ「ファフナーと竜宮島と異性愛至上主義」については今後とも追いかけていきたいと思います。一総一が好きです。一真か総真は異性愛至上主義への屈服と捉えるので嫌だけど総一真三人婚展開は推したい。
今日6月28日は最後の時間が始まる日なので急いで間に合わせました。
エメリー語りと真矢ちゃん語り
蒼穹のファフナーEXODUSも残すところあと3話。
エメリーと真矢ちゃんがとんでもなく愛くるしいです。
吐き出したくなったので語ります。
★エメリー語り
エメリー・アーモンド
>エメリーにとっても美羽の存在は不確かなもので、実際に対面するまでは実在するかどうか自信を持てずにいた。
エメ美羽のなにに一番ときめくかってここだよ。
不安をずっと抱えていたんだエメリーは。
世界平和のために自分ひとりじゃ力不足だとわかっていて心寄せられる人が誰もいなくてずっと孤独な「戦い」をしていたのがエメリーなのよ。
「いるって信じてた。絶対に」と言いつつやっぱり不安だったんだな!て。
いえ、不安だったからこそそういう言葉が出るんだ。
「絶対私の空想なんかじゃないって」ってね、空想のお友だちかもしれないと孤独を抱えていたエメリーを思うとね、もうね。
エメリーと美羽が初めて交信してからエメリーが竜宮島にやってくるまで数ヶ月はあったんじゃないかなと推測してます。
そんなすぐにはエメリーやナレインがシュリーナガルを離れられるとは思えないし、何よりそんな不安から解放されて涙を流すエメリーの切実さから一週間そこらなはずがない。
数ヶ月心もとない美羽の存在に縋って生きてきたエメリー……。推せる。
ただそうなると1話弓子の「最近空想のお友だちとばっかりお話してるのよ」という説明台詞が曲者で、最近になるまで弓子は気づいてなかったの?となってしまいずっと矛盾に苛まれていたんですけど、ドラマCDにて夢で会っていたと明かされて晴れて決着がつきました。
エメリーは忙しくて最近になるまで夜にしか話せる時間がなかったんだきっと。時差もそんなになさそうだし。
全部私の脳内設定だけど。
エメリーの家族問題は何も明らかにされてないので想像しかできないけど、エメリーが美羽を必死に守ろうとしていたのは弟を守れなかった代わりなんじゃないかと思ってます、今のところ。
エメリーは家族と故郷を失って、ハワイでも対話を試みたのに自分一人しか救えなかったことを、結構重責に感じてるんだろうなと思う。
だから今幼いながらにエスペラントの役目を自覚し全うしようと頑張ってるんじゃないかと。
対して美羽は、平和な竜宮島で育ってきて、フェストゥムとの対話で島を守り、共存への一歩も踏み出したスペシャリストで。
エメリーはそれを勇気の糧にして、憧れと恭慕を抱いていたんじゃないかなと思います。重責に溺れそうになったときの支えが美羽だったんだろうな。
最重要のエスペラントである立場ってすごく重いだろう。人類の未来を背負ってるわけだし。
エメリーがその立場でずっと働いてきたからこそ、美羽がエメリーより強い力を持つエスペラントだという事実はエメリーを公にも私にも支えていたんだろうと思うんです。
公に支えたのが8話での「私がいなくなっても希望は失われない。生きて受け継いでくれる」で、あれは美羽がいたからこそ言えた台詞だし、でなければ「絶対に死ねない」というプレッシャーが常時かかっていて、エメリーにとってそれは辛いことだろうなと。
私に支えたと垣間見えるのが『THE FOLLOWER』での取り乱しだったんだと思います。
ごく単純に、「美羽がいなくなったら(私にとって)嫌だ」という。
もしそういう私的な部分がなかったら、いずれ「大義のためにはエゴを切り捨ててよい、切り捨てなければならない」というヘスター的発想になっていたかもしれず、自分を守ることも恥じ入ることもなくそれゆえに島のエゴを尊重することもなく「美羽やあなたを苦しめてごめんなさい」と泣くこともなかったんだろうなあ。
HAEまでは全然、美羽のことバイリンガル幼女くらいにしか思っていなかったのだけども、まさしく正しく世界の希望であり、エメリーのミューズでありつづける美羽もまた美しいなと思うし、しかしその美羽を神格化まではさせず負担をかけないように努力しているエメリーとなるとせつにいとおしいというものです。
★真矢ちゃん語り
今の真矢ちゃんが大好きです。
というのも私はエゴイストが好きで、エゴをエゴと理解してそれでも周りを省みず開き直って突き通す人というのがたまらなく好きだから。
『クズの本懐』1巻の主人公がちょうど大好物なエゴイストで、
「人のモノにあんまり無許可でひっつかないでね」
と自分の彼氏にまとわりつく女相手に言うんですけど、実は彼氏といっても自分を慰めるために互いを利用しているだけで純粋に好きなわけではまったくなくて、
なのにその彼氏のことを"純粋に好き"な女に罪悪感なく「彼氏」を独占していいと開き直る主人公にとても痺れたのですが。
ひるがえって真矢ちゃんは昔からエゴイスティックな部分があった。
ジョナミツが「エスペラント二人を守る」と言ったのを、「美羽と弓子二人を守る」にいつの間にか読みかえていたのは真矢ちゃんのエゴの表れだ。
真矢ちゃんはそういうエゴを自覚してもいたし、エゴへの引け目もエゴをどう対処すればいいのかも知っていた。
だから抑制すべき勘所を理解して、「戦いたいなんて間違ってるよね」と言い、「あたしが戦うからお姉ちゃんもお母さんもみんなに責められずに済む」と立ち回ることができた。
それでも唯一曲げられなくて、また真矢ちゃんにとって曲げなくてよかったのが一騎を守ることだったんだろうな。
だって「皆城くんなら何かできる」から。笑
総士なら一騎を守れると信じていたし、だから甘えられたし、エゴをぶつけることができた。
その気持ちは戦いつづける限り報われることはないけど、譲りたいと思ったこともないんだろう。
EXO15話で自分の善悪を揺るがされてからずっと「人を守るために人を殺してもいいものなのか?」と考えつづけ、18話でやっと"自分にとって"一番大切な一騎を守ることは他の何より優先すべきことだという道を選べて、開き直る準備ができたのでしょう。
だから開き直りきった23話がもう爽快でね……突き通せるのだもう彼女は。
そして文字通りその引き金を引かせるのは一騎でよかったし、一騎でなければならなかった。
美羽も総士もみんなも大切な人ではあるんだけど、覚悟を決めさせるには真矢ちゃんにとって一番大切な人でなければならなかった。
そこから逆算して、だからこそ一騎は朴念仁の無頓着で人を非対等に扱う必要があったし、真矢ちゃんの一騎を守りたい気持ちを抑圧する存在でなければならなかったんだな。
ファフナーのすごいところはそういう一騎の姿が元からの一騎像にぴたりと当てはまるところであるし、またこういう真矢ちゃんの末路が元からの真矢ちゃんのエゴの部分の昇華として現れたところであると。
イベントで松本さんが「この(真矢ちゃんが一騎を守るために人を撃つ)ために今までのファフナーシリーズで描かれてきた真矢があったんじゃないかって」という話をされてたけど、そういう錯覚ができるほど綺麗に今までの積み重ねが連なり絡み合っているのが惚れ惚れするよなあ、と思うのです。
覚悟を決めて度胸を手に入れそれを貫く人というのはかくも美しいもので、自分にとっての優先順位をはっきりさせたためにダスティンを躊躇いもせずマインブレードで一刺しする真矢ちゃんにいたく興奮しました。
ダスティンは人々を救うために人を殺しつづけたわけで、それよりももっとミクロなレベルで大切な人を守るために人を殺す、そういうエゴが勝った瞬間だと思う。
しかしエゴをエゴとして突き通すというのはその責任も一手に負うということでもあって、だから真矢ちゃんはそれを引き受けた結果としてヘスターに選ばせるために自爆の覚悟でもってフェンリルを起動した。
そういう掬い方、説き伏せ方がすごいよなー。
その覚悟がまたかっこいいんだわ。
一昔前ならやむなしとはいえエゴのために手を汚した人はそれをそそぐために罪を背負って死ぬのが定石だろうと思うのですが、真矢ちゃんに至ってはそういうことはしないんじゃなかろうかと。
真矢ちゃん、だしねえ。ファフナー、だしねえ。
何より「完膚なきまでのエゴの勝利」というものを見てみたいんだよな、私は。
ここまで勝っているから勝ち逃げしてほしいんだ。
『クズの本懐』はエゴを描きたいわけではなく、主人公に芯がなかったのでその後気持ちがゆらゆらしていて、貫いてはくれないのだなあと私は次第に興味をなくしていきました。
とりとめないけど語れたのでまあいいや。
ともかくエメリーと真矢ちゃんが大好きです。
新居昭乃Flora~冬の庭園2015/12/26ライブレポート
セットリスト
1エウロパの氷
2ばらの茂み
3花のかたち
4mizu
5サリーのビー玉
6Fly me above
7Lhasa
8VOICES
9空の青さ
10奇跡の海(カバー曲)
11冬の庭園?(新曲)
12New World
13Sophia~白の惑星
14人間の子供
15美しい星
――アンコール――
16Never Land(新曲)
17風と鳥と空
18虹
三井ホールでの年末ライブ、久しぶりですね。
私も昭乃さんのホールライブが1年ぶりだったのでもー気分は「摂取」でしたね。
しかしこの日はいつもとは違う楽しみ方をした。
たまにはこういうのもありかな。
ちょうどこの日にファフナーEXODUS最終話を迎え、私はファフナーと昭乃さんの世界観の根底が一致していると考えている(私は昭乃さん的なものに惹かれる性質を持つ)からめちゃくちゃ重ねて見てました。
ので大半の曲で滂沱の涙を流しました……世界観、合いすぎ。
昭乃さんのライブでこんなに泣いたの初めて。もはやVOICESや美しい星なんて何度も聴いて慣れていたはずなのに。
たいていホールライブではわりあい攻撃的なアレンジを好む私ですが今日はしっとりな雰囲気でおなじみのストレートなセットリストが肌にじんわりと合っていた。
(そしてせっかくの2daysライブなのに27日はファフナーイベントと重なるため行けずじまいだった、ファフナーについては「自分用メモ」のほうで語ったのでこちらではもういい)
1エウロパの氷
2ばらの茂み
3花のかたち
4mizu
一曲めからエウロパ。
去年の大谷資料館のときを彷彿とさせる。今回は直感でSailorがくるんじゃないかと思ったけどはずれ。
こう、いつもなんで喉の調子よくない初っ端からつらくなりそうな曲歌うんだろうと思ってたんだけど、あとの曲のほうが確かにつらそうですね……。
ばらの茂み、なんだか可愛らしい歌い方でほんわかした。
「♪ねえ、Silver Girl」の跳ねるような語尾。
そのかわいさから花のかたちのやさしさ、そしてmizuの包み込み。多彩な景色。
mizuは青系統のライトでステージを照らし出す、水のイメージだったんだろう。
映像つくってある曲もあるのにこのブロックは視覚的演出はライトのみ。聴かせる弾き語り。
5サリーのビー玉
6Fly me above
7Lhasa
8VOICES
9空の青さ
そして昭乃さん緊張の弾き語りが終わり一曲ごとにサポートの方々が登場。
記憶に自信ないけどもしや藤堂昌彦さんとサリーのビー玉演るの初めてだった??
すごく神聖な掛け合いを見た気がする……。
本日の目玉、ハープの吉野友加さん。
私ハープ生で聴いたの初めてなんだけど、こんな美しく空気が凛と震える音なんだ!
もっとぼんやりした音色を想像してた。
私は音楽のことまるでわからないから二胡って言われてもそうかって思ってた。
そして全員揃ったLhasa、美しい。昭乃さんの声は他の音色と張り合うときの潤いが綺麗なんだよね。
そしてVOICESは前述のとおりファフナーに重ねまくってというかこんなに重なることを初めて知ってちょっとすごい衝撃……「見たこともない風景そこが帰る場所 たったひとつのいのちにたどり着く場所」……堪える。
まだしもぼく地球の曲ならここまで衝撃ではなかったろう。
からの空の青さは個人的に大歓喜だった。
10奇跡の海(カバー曲)
11冬の庭園?(新曲)
12New World
13Sophia~白の惑星
そしてここから映像とおなじみのプロジェクションマッピング幕演出!
奇跡の海!
この力強さこそいつもライブで見たい昭乃さん。だよね、真綾さんのトリビュートアルバムでこれカバーしたの2015年だったもんねくるよね……。
新曲はかわいらしいしとしととした静かな雪景色。
映像もステージいっぱいに雪を降らせていた。
久しぶりに聴くNew Worldで高潮し、白の惑星でオチをつける!
このへんの盛り上がりが最高だった。
白の惑星における「あかり」、蝋燭が雪のなかに照っているあたたかさ。
寒い、けれどもほのかにあたたかく、微弱ながら力強く息をしている。
それこそが昭乃さんの世界。そういうステージづくりが成功した流れだった。
そして静かに人間の子供と美しい星で締め。
昭乃さんがMCを考えていなかったということですっごいさくさくセットリスト消化して。笑
あっというまにアンコール。
16Never Land(新曲)
17風と鳥と空
18虹
新曲のNever Land。こういう、ぐっと耳を澄ましていなければ聴き取れない「声」を届ける内向きの曲がくるとほっとする。
昭乃さんの根底は変わっていないのだと。
でもそれだけではないことは感じたのでやっぱり歌詞分析できないかなあー。
吉野さんのハープとふたりでやる風と鳥と空、冬の空の旅の終息。
Adessoも合いそうだなあ、ハープ。
恒例の最後の虹。
2015年の昭乃さん単独ライブこれしか行ってないので他はわからないのですけど、虹でライトがカラフルになる演出はこれからずっとそうなんでしょうか。
おととしまでオレンジ一色だったものね。
これに映像つけないのはきっと信念だろうなあ。
さて。
以前に数年分のライブレポ記事全部消してしまったのわりと後悔してるので覚え書きは記しておきたいですね。
今年はちゃんといっぱいライブイベント他行けるといいなー。
新居昭乃Little Piano Tour vol.6初日 2016/3/5ライブレポート
Little Piano Tour vol.6 早稲田奉仕園スコットホール
セットリスト
1Adesso e forutuna~炎と永遠~
2VOICES
3美しい星
4Reincarnation
5小鳥の巣
6空から吹く風
7仔猫の心臓
8OMATSURI
9アトムの光
10Black Shell
11Solitude
12妖精の死
13人間の子供
14Little Edie
――アンコール――
15懐かしい宇宙
16鉱石ラジオ
17虹
いや、素晴らしかった!!!
リトルピアノツアー、今年で6回目ですが、そして去年は一回も行けなかったんですが、その中で一番満足した公演だったかもしれない。
満足度ではかるならば。
セットリストを見ればわかるとおり、これ、空の庭のアルバム曲順になっているんですよ……。
しかも全曲。
アルバム引っさげたツアーならともかく、毎年のささやかな「ひとりでできるもん」ツアーの中でこうくるとは思わず大歓喜でした。
特に『Black Shell』『Solitude』あたりは一生生で聴けない可能性もあると思っていたんだ。
これは他のアルバムも……くるんでしょうか……まさか次の山梨の酒蔵で『降るプラチナ』とか。
1Adesso e forutuna~炎と永遠~
2VOICES
3美しい星
『Adesso』、映像初めて見ましたが、夜の海に浮かぶ船が美しいなと。
青紫のひそやかで艶やかなライトがステージ背面に浮かび、教会のような小さな会場を彩っていた。
そして『VOICES』『美しい星』と、いつもなら終盤に持ってくるような定番曲がここで来たときから何かおかしいと思っていた、ら……。
MCにて、「ここからはスペシャルメニューだからね」と、なにやら笑みを浮かべて目の前のipad端末(楽譜かなにか)をいじる昭乃さん。
4Reincarnation
5小鳥の巣
6空から吹く風
まさか……まさか……と聴いてきて、『空から吹く風』で「確定だーー!!」とテンション上がる。
しかも映像つきですよ。恐らく全部私は初見。
『小鳥の巣』の映像がかわいかった。
『空から吹く風』も初めて聴けて嬉しい。
いつだかリクエストでうろ覚えのままアカペラで歌ってくださっていたみたいなんですが私たぶんその公演行ってないから。
正直なところ、昭乃さんの弾くピアノ演奏って昭乃さんの曲質に合ってない曲があると思っているんだけど、この曲は軽快なリズムを刻むピアノがしっくり合って気持ちよかった。
7仔猫の心臓
8OMATSURI
9アトムの光
『仔猫の心臓』はふたつのわっかがじゃれるような映像が印象的。
ここまで全部映像つきだったので『OMATSURI』めっちゃ期待してて、妖しい現実と異空間の狭間をどう演出するんだろうって思っていたんだけど、予想に反して透き通る空と雲の流れがメインだったので驚いた。
どういう意図なんだろう。
そしてこの日の『アトムの光』、めちゃくちゃ凄かった……。
心の奥にすすー……っと入ってきて、さびしい孤独に寄り添うように、切なる感情を、願いを、声にならない声を、包み込んで空気になって溶けていく。
昭乃さんの真骨頂。ひっそりと寄り添うこと。
これは本当にささやかにひとりひとりに届ける行為なので、ライブという沢山の観客が集まる場所であってもひどくパーソナルな世界への没入になるという特徴を持っているため、圧倒されたの私だけかと思ってたら隣の人ぼろぼろ泣いてた。
映像は以前から使用している、一本の木の向こうに日が光っているカットが印象的なもの。
ハイライトのように蝶や花や人や鹿等様々な心象がぼやけてにじんでいく。
昭乃さんは「こんなマイペースなまま30年音楽やってこれて」って折に触れて言うけれど、こんなに人を魅了する世界を作り上げておいて「こんなんでもやっていけてるから安心材料にして」と言われてもまったく説得力ないですからね!
からの、MCのどこか抜けたかわいらしさのギャップがね……。
アルバム『懐かしい未来』が昭乃さんのやりたい音楽じゃないのは誰の目にも明らかだけど、「早く廃盤になってほしいのに30年経ってもなってくれない……」は笑ったwww
ファン的には好きですけれど、どの曲も。
10Black Shell
11Solitude
この二曲は本当に、聴ける機会なさそうだからこそいつか生で聴けたらいいのにと思っていた曲だったから感無量ですよ……!!!
どちらも「夏」というワードが入ってるんですよね。
全然夏っぽくないどころか、氷すら降っていそうなつめたさだけど。
というかこのアルバム、全部とは言わないまでも夏がモチーフなんじゃないかな?
お祭りにしろ、原爆にしろ……。
昭乃さんの手にかかるとこうもひんやりした歌になる。
しかし冷徹ではない、寄り添ってくれるからこそ温かくなるのが昭乃さんの特徴である。
12妖精の死
13人間の子供
14Little Edie
『妖精の死』も初めて生で聴いたよ。アルバムライブ最高です……。
ていうかこれ弥衣さんコーラスで掛け合いしてほしいな!? 強く思った。『Reincaanation』も!
「歌いたい曲が初めてはっきりした思い入れ深い曲」、「当時を思い出して歌います」ということだったので、まさしくアルバム仕様のかわいい声だった。
何気に昭乃さん色んな声質持ってるよね。
映像が御伽噺みたいでかわいい。また見たい。
『人間の子供』が「ほっとする曲」だというのは、単に曲調の話だろうか?
「妖精」(恐らく少女の隠喩)が死んで後二曲がちいさな子供への慈愛の目線だという構成はどういうことなんだろうと改めて考えてしまった。
大人になる瞬間から、悟って耐えてしまう子供から、生まれたてのまっさらな赤子への回帰?
ちいさきものへの慈愛目線は昭乃さんのテーマなので、Reincarnation(転生)から小鳥の巣(産道を通って生まれた赤子?)を経て、大人になったその瞬間まで成長して、そして赤子返りしていく……というアルバム構成って面白いなと思ったり。
生まれてきてくれてありがとう、こどもに向かう人生賛歌……。
こうして私たちは昭乃さんに生まれたことを「少しずつ許されていくのよ」。
アンコールは全ていつもの曲で合唱。
そういえば『虹』のライトはオレンジだった……ような?
あったかい気持ちを持ち帰ることができました。
そして4年ぶりのアルバムリリース発表でした!
楽しみ。(歌詞分析アップデートをするか否か……)
あとツアーグッズ事前に調べること意図的に避けていたのでカバー曲入りUSBの存在初めて知ってショックだよ……ほしかったよ……。
次は21日の赤レンガなのでそこで手に入れられますよう。
「前世もの」作品の構成要素――少女漫画と少女漫画以外の相違性
引用部分色つき太字。
『花まんま』『スピリットサークル』『懲役339年』『ファンタジックチルドレン』『妖狐×僕SS』『密・リターンズ!』のネタバレあり。
前世。
それは運命のことわりによって生を越えてつづく魂の前身。
肉体が死を迎えても滅びぬ魂が新たな肉体をもって生まれ変わることわり。
身体と魂が分離した別個の存在であるとする物語。
さて、そのように世界を見た作品は世界中に根強く存在しています。
そこでのほとんどの作品は、肉体を移し変えただけで現世と前世でまったく同値の人格を取ります。
そうでなくとも、「生まれ変わる魂」への疑問を一切持ちません。
しかし全体的に見れば僅かながらそれへの疑問を指摘し運命と自我の兼ね合いに反発・葛藤・考察する作品が現れています。
本記事が言及していくのはそういった作品についてです。
よってここでの「前世もの」の定義は「生を越えてつづく自己に懐疑を抱く転生作品」とします。
生を越えてなおつづく魂はあるのか。
あるとすればそれは本当に私なのか。私を私たらしめるものとはなにか。
生を越えてつづく魂があるのならその同一性はどこにあるのか。
転生した魂は運命に巻き込まれ幾度も同じ生を繰り返すものなのか。
ではそれぞれの生は互換可能なものなのか。
であるならば今ここにいる現世の「私」に自我はなく、他の誰でもないたった一人の「私」は存在しえないのか。
前世を引きずることは現世に対して不誠実ではないのか。
現世の私は前世の魂の器でしかないのか。
「前世もの」は様々な角度からこれらを質します。
そこで問いかけているものの本質は「ここにいる私(のルーツ)とはなにか」です。
転生する魂を疑わない転生作品は「ここにいる私とはなにか」を問うことができないので、これと区別します。
「前世」と言われても、「前世」のあらゆる出来事に今ここにいる私の自我は関与していません。
前世の存在を知覚した時点でそれは「運命」を知らずのうちに背負ってしまうということです。
関与した覚えもないのに過ぎてきた過去(運命)を背負う。
私は確かに今ここにいてしまいます。その理由に過去は本当に関係があるのでしょうか。
「私」の自我は現世でのみに存在するのではなく、前世からつづいてきたものなのでしょうか。
「私」は不安になります。
今ここにいる「私」が前世と全く同じものであるなら現世固有の「私」がいなくなるから。アイデンティティーが揺らぐから。
「私」を形づくってきたルーツは現世にあると信じその自我をこそ守りたいから。
すべて前世ものは「私」と「運命」との戦いだ、と単純化できるでしょう。
前世ものでほとんどのキャラクターたちは初めから記憶を持っているのではなく、ある程度現世の自我が確立した時点で思い出す形を取ります。
守るべき自我が提示されることで「自我が前世に飲まれてはいけないのではないか」という葛藤が生まれます。
今までの思い出とかどうなるのかしら
あたしは家族をとても大事にしてるし大好きだけど
木蓮さんにだって家族はあったはずなんだから家族がふたつも急に出来てしまう
輪くんはどうだったんだろう
覚醒したら今のあたし…坂口亜梨子より『木蓮』としての意識や自覚の方が強まるのかしら?
そうしたら『坂口亜梨子』はどこへ行っちゃうんだろう
(『ぼくの地球を守って』日渡早紀/8巻p68-p69)
転生した「私」は(過ぎた過去という)「運命」と戦います。
「運命」に負けたら今ここにいる「私」は唯一性を失い自我がなくなってしまう。
私とはなにか。私のルーツとはなにか。
いくら魂が転生しても、「私」は現世を生きていかねばならないものです。
今ここにいる「私」は前世とは関係のないひとりの人間なのです。
「この子は、そんな名前やないっ! フミ子や。俺の妹や。おっちゃんらとは、何の関係もあらへん!」
(『花まんま』朱川湊人/p207)
「おれはフルトゥナなんかに負けねえ!!
フォンにも ヴァンにも フロウにも!!」
(『スピリットサークル』水上悟志/3巻p22)
「運命」を疑い、そして立ち向かった「私」。
そういう本質を持つ前世ものは当然のごとく、「私」が関与した自覚もない過去よりも今を大事にします。
ここにおいて「私」とは前世に拠らず現世に生きているそして生きていく自我を指します。
その「私」が過去からの呪縛に立ち向かい、そして勝つことで前世に縛られない唯一無二の「私」を確立することができます。
だから、最終的に彼らは前世の記憶を忘れたり、前世から受け継いできた力を失ったりすることもあります。
今を生きるべきだからです。
「ヘルガとトーマの記憶はどうなるの?」
「たぶん僕たちと同じように12歳になると完全に消えてしまうだろう」
(『ファンタジックチルドレン』26話)
「わかっとんのやろな?
お前はもう何も羽根の力もない普通の人間として生きていかなならん事…」
(『天使禁猟区』由貴香織里/文庫10巻p395)
『懲役339年』ではついに、変えられないはずの「運命」を人間のつくった紛い物だとして魂の転生までをも否定しました。
つまり前世などありもしないのだと言い、"前世もの"ではなくなったのです。
「お前は本質を捉える事が出来る奴だ。それなのに、
本当にあると思うのか!? 生まれ変わりが!!」
(『懲役339年』伊勢ともか/1巻p180)
運命への抵抗は、なにも前世ものでなくともあらゆる物語の定番、基礎類型のひとつです。
前世ものは「生を越えてつづく自我に懐疑を抱く」という定義上、過去からの呪縛を「運命」として捉えることを容易にし、それに打ち克つことで物語を生むことができます。
だから『懲役339年』は運命を欺瞞だと言い転生を否定したのです。
前世ものにおいて、運命に抵抗し運命を否定するということはつまり過去の否定となります。
必ずしも転生そのものを否定するわけではありませんが、少なくとも「前世からつづいてきた今」の螺旋を否定します。
前世と関係ない今が大事だから前世と現世を切り離しすことができるのです。
『スピリットサークル』では過ぎてきた過去さえまだ決まっていないことだと断言します。
過去は変えられるものなのです。
過去でこじれて今に引き継いでしまっている悪しき運命を、過去を変えることで正そうとします。
今ここにいる「私」は前世とは関係ないものだから、過去を変えてもなんの支障もありません。
「おれ達の娘が教えてくれたんだ
未来も過去も決まってないって」
(『スピリットサークル』水上悟志/5巻p23)
『妖狐×僕SS』も運命に抵抗し、過去を改変します。
前世と現世のつながりを否定してはいません。むしろつながっていると考えるからこそ、悪しき因縁のある過去を改変したのち「今」が消えるのです。
すなわちこれもまた「過去からつづく今」の否定です
「23年前に戻って百鬼夜行を止めても止めなくても「今」は消えるんだぞ……!?」
(『妖狐×僕SS』藤原ここあ/8巻p54)
さてここまで見てきたのは「運命」と「私」の戦い、対立です。
「今」を「過去からつづいてきた結果」として受け入れることなく拒絶します。
運命への抵抗という要素が物語を生むからです。
しかし、本当にそれだけが物語なのでしょうか。
過去を否定してしまったら転生して今ここにいる私の存在は一体なんなのでしょうか。私のルーツに前世はまったく関係のないものなのでしょうか。
「運命」という超自然的支配が存在しないのだとしたらなぜ魂は転生するのでしょうか。
または転生というシステムはありえないものなのでしょうか。
――それに答えをくれるのは少女漫画です。
少女漫画は運命への抵抗よりもむしろ、運命の受容により重きを置きます。
「運命の人」というフレーズを出すとわかりやすいかもしれません。
少女漫画は基本的に運命を肯定し永遠の魂の結びつきを希求するものです。(すべてがそうだとは言いません)
最初に定義したとおり前世ものは生を越えてつづく自己に懐疑を抱く転生作品です。
だから「運命への抵抗」というパターンの物語が採用されやすいのでしょう。
少女漫画の前世ものも「運命の人」を疑いにかかるため、前世の恋人と再度結ばれるかどうかは作品によりまちまちです。
しかし「私」を保つため「運命」にただ反発するだけでは事態は好転しません。
なぜか。
過去は、変えられないからです。
「夫も子供も亡くした時…
自分の宿命(さだめ)から目をそむけようとばかりしてた
でも今はこう思てる…宿命に逆らうより――――
受け入れて立ち向かえる人間にならなって」
(『妖しのセレス』渡瀬悠宇/4巻p42)
清濁併せた運命の受容。
これが少女漫画の得意とする領域です。
今は過去からつづいてきたものです。
どんなに変えてしまいたい出来事があっても前世はもう過ぎてしまった過去だし、過去があったからこそ今の「私」が存在しているのです。
何度繰り返してもシリクスは行くだろう
何度繰り返してもセレナは待ち続けるだろう
わかっている
歴史は変えられない
(『NGライフ』草凪みずほ/9巻p82)
きっと俺はふりだしに戻る
セレナを守れなかった事を悔やむだろう
「それでも俺は俺らしくあったと誇れるだろう?
そうだろう……?」
(『NGライフ』草凪みずほ/9巻p105)
幸せな夢より君がいい
間違っていたとしてもオレの真実(ほんとう)は君だから
この世界(ここ)でなきゃ君と出会えなかった
生きて 出会って
今を生きたくなる
君という存在で この世界を肯定できる
(『ZERO』やまざき貴子/10巻p159)
運命は拒否できない。過ぎし過去は戻らない。苦い思い出であろうと過去がなければこの私のいる今もなかった。
だから、受け入れるのです。過去からつづいてきた今を。
そしてすべてを肯定するのです。
前世を知るって ただこれまでの道のりを振り返るだけのこと
現在(いま)のあたしが消えるってことじゃない…
過去があって今のあたしが存在してる
(『ぼくの地球を守って』日渡早紀/17巻p168)
過去を受け入れるといっても現世固有の自我を否定するわけではありません。前世ものは「私とはなにか」を問うのですから。
「運命」と「私」のあり方を疑います。けれども対立はしません。
過去から今へとつづいてきた運命を一旦受け入れた上で、呪わしい「因縁」を未来へ引き継ぐことは阻止します。
天女(セレス)と始祖「ミカギ」の悲しい過去
その子孫の御景家の血みどろの歴史
セレスに「羽衣(マナ)」が戻ればきっと…それも終わる
(『妖しのセレス』渡瀬悠宇/13巻p105)
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/4巻p159)
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/5巻p17-p18)
「人の手で与えられる事に慣れては自然では強くは生きられない」
「でもこのままでは死んでしまうんじゃないのか!?」
「ならそれも運命
生きるべき場所で生き運命に従い死ぬ
それがあるべき生命の姿」
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/4巻p159)
「あの仔ギツネに手をさしのべる道もあったのだ
出会った事で運命を変える選択肢は生まれたのだ
…それをよく覚えておいで」
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/5巻p17-p18)
続いてきた悪しき因縁を未来へ引き渡さないよう絶つことが今の「私」の唯一性の証であり、過去を昇華し今を生きるということになります。
「私」が過去からつづく「運命」を受け入れ、清濁併せた過去を昇華し未来へ繋ぐ。
「私」がなくなるわけではありません。けれど前世がなくなるわけでもありません。
そうなると前世と今はまるきり別々の人間ではなくなります。
今ここにいる「私」を形づくってきた過去、「私」のルーツを前世に求めることになります。
よって、過去を受け入れ前世の自我を受け入れることで、過去の自分と今の自分を統合することができるようになるのです。
今の「私」の唯一性を損なうことなく、前世の自我と今が共存する――。
「そう…私たちはひとつに解ける…これでやっと私は本来の姿に戻れる
けれど妖…あなたの人格は完全に消えるかも知れない」
「―――あたしは消えないよ
あんたは あたしなんだから―――」
(『妖しのセレス』渡瀬悠宇/14巻p125)
「最初はね 〝転生したんだ〟って 〝自分はリダだ〟ってそればっかりだったけど
普通の生活送ってるとだんだん 共存…できてくるよ」
「共存…かぁ」
「なくなりはしないかな」
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/6巻p125-p126)
「わたしたちはすでにわたしたちではなくわたしなのです
わたしはわたしであることを受け入れました…
わたしであることの希望と絶望の両方を…」
(『イティハーサ』水樹和佳子/15巻p30)(傍点省略)
拒絶しないからそういうことができるのです。
「前世」の自我を受け入れ他者ではなしに自己として統合することが。
前世ものは通常「過去からつづく今」を拒絶します。過去と今を切り離します。
運命の非受容です。
ここはあの日々の続きではない
全てを受け入れて 前向きに今を生きるなんてできない
(『妖狐×僕SS』藤原ここあ/6巻p137-p138)
だから当然前世と現世の自我の統合もしません。
「セス、あなたはトーマなの! あなたが死んだらトーマが死んでしまう
今生きてるのはトーマなのよ! お願いセス。トーマになって生きて!」
(中略)
「俺は、トーマとして生きるよ。生きよう、ヘルガ。生きるんだ。」
(『ファンタジックチルドレン』26話)(中略は引用者による)
「アレク…!?」
「…さっきまではそうだったが…
一瞬気を緩ませた時俺は彼女の意識を…俺の意志で取り戻した
俺は刹那だ」
(『天使禁猟区』由貴香織里/文庫10巻p161)
「君はifの君を自分ではないと捉えるんだな」
「凜々蝶さまは…?」
「判らない」
(『妖狐×僕SS』藤原ここあ/11巻p258)
それは少女漫画が前世と現世を地続きに考え、「過去からつづく今」をこそ運命として捉えるのと対照的です。
厳密に言うと「少女漫画だから」そうなる、というわけではありません。
少女漫画であっても運命に抵抗し自我を分離する作品もあれば、逆に少女漫画でなくとも「過去からつづく今」の受容や自我の統合が描かれる作品もあります。
『密・リターンズ!』では、キャラクターによってそれが描き分けられています。
「前世なんざおれの知ったことか」
(『密・リターンズ!』八神健/7巻p103)
「今度は外で会おうぜ」
「おたがい元の姿でね」
(『密・リターンズ!』八神健/4巻p142)
過去と現在のつながりを否定し前世と現世の自我を分離するキャラと、
「ボクは過去を捨てました
あなたも…いつまでも過去にしばられないでほしい…!」
「………ごめんなさい…
………私にはどうしても忘れられない人がいるんです
(中略)
その人がいなかったら今の私はいないんです
忘れることのできない存在…どころか 私の一部なんです」
(『密・リターンズ!』八神健/3巻p42-p43)(中略は引用者による)
「理都…あなたは私にさからおうというの…?」
「ちがうわ…
(中略)
あなたと私は二人でひとりだから…一緒に生きていきましょう」
(『密・リターンズ!』八神健/7巻p135-p137)(中略は引用者による)
過去と現在を地続きと捉え過去を受容し前世と現世の自我を統合するキャラに分かれています。
なので、少女漫画と少女漫画以外で厳密な区切りがあるわけではありません。
しかし傾向として大まかにそのような相違性があるのは事実だと思われます。
前世ものの特性上通常は「運命への抵抗」の物語が採用されやすいがゆえに、少女漫画以外だと「受容」まで手が回りづらいからです。
★まとめ
前世ものとは「生を越えてつづく自己に懐疑を抱く転生作品」。
よって基本的には以下の要素が当てはまる。
・運命への抵抗
・前世と現世の分離
・過去からつづく今を否定
・前世と現世の自我の非統合
「運命」と「私」が対立し、「運命」よりも現世固有の「私」が大事にされるため。
より少女漫画的な作品の場合、以下の構成要素を持ちうる。
・清濁併せた運命の受容
・前世と現世が地続き
・過去からつづく今の受容
・前世と現世の自我の統合
「前世もの」の特性が運命を疑わせるが、それでいてなお抵抗せずに運命を受け入れることで事態に対処する。過去からつづく今を受け入れ自我を統合することができる。
---------------------------------
私の根幹は『ぼくの地球を守って』だから「前世もの」がこうもせっまい定義になりました。
前世を扱った作品は古今東西たくさんあるのでこんなに探すのに苦労するとは思わなかった。
しかし長年やりたいと思っていたぼく地球分解ができてよかった。
いつかぼく地球のみストーリーに絞った考察をやりたいんだけどネタがない。気長にいこう。
ファフナーが描いた少女漫画性――前世もの類型から見る生まれ変わった総士の姿
引用部分色つき太字。
『妖狐×僕SS』『ぼくの地球を守って』のネタバレあり。
これはあくまで前世もの類型という外的文脈に依拠する“分類”であって、総士がどのような存在であるか、あるいはファフナーという物語があの総士を希求した理由の考察ではないです。
「前世もの」作品の構成要素――少女漫画と少女漫画以外の相違性
前回の記事では「前世もの」作品の構成要素を分解・分析しました。
「前世もの」の定義は「生を越えてつづく自己に懐疑を抱く転生作品」として、運命と自我の兼ね合いに反発・葛藤・考察しない転生作品と区別しました。
---------------------------------
さて。
ファフナーを輪廻の物語として見たとき、これもまた「前世もの」として捉えられることがわかります。
ファフナーは生を越えてつづく自己に懐疑を抱いた転生作品(の亜種)です。
元々『蒼穹のファフナー』は大いなる運命、輪廻のことわりを獲得する物語でした。
「最初は、みんなひとつだった。大きくて深い場所」
(『蒼穹のファフナー』15話)
「同化現象って言うんだって
僕たちの体のなかに記された、遠い場所への帰り道なんだって」
(『蒼穹のファフナー』15話)
フェストゥムの祝福は「無」でした。
いなくなったら何も残らない停滞が待ち受けていました。
それが人類と関わるうちに変わっていってついに生命の循環を理解したのが無印のラストです。
「代謝って体を生まれ変わらせることだよな。お前たちもそれを手に入れた
それって命になるってことだろ」
(『蒼穹のファフナーRIGHT OF LEFT』)
「ミールに教えてあげないと。生命にとって、終わることが新しい始まりであることを。
生と死がひとつのものとして続いていくことを」
(『蒼穹のファフナー』25話)
ファフナーは古来SFが描いてきた「自我の融解」が一定の静止状態である物語を克服したのです。
それは奇しくも運命を受容する少女漫画性の獲得でした。
参考:
『エヴァンゲリオン』の中では「自我の融解」が、逃避かもしれないが選び取りさえすればそこにある一つの理想郷、一つの帰結、至福の静止状態として認識されているのに対して、少女マンガにおけるそれは、あくまでも一つの始まり――そこから存在が個別に変化し、枝分かれしていく〝始源〟の状態――として認識されているということだ。
(『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』藤本由香里/p321)
また、ファフナーは「受容」がひとつのキーワードでもありました。
「俺は、お前だ。お前は、俺だ」
「敵のミールの鼓動……。一騎が、敵の意志を同化した」
「そう。受け入れることもひとつの力だよ」
(『蒼穹のファフナー』26話)
「無論真壁紅音自身にとってもそれは不測の事態だった
だが我々と接触した瞬間、我々を迎え入れ、祝福した」
(『蒼穹のファフナー』24話)
「前世もの」作品の構成要素――少女漫画と少女漫画以外の相違性
「受容」は少女漫画の特徴のひとつです。
大いなる超自然の運命に反発するのではなく受容する。それは今につながる清濁併せた過去も受容するということ。
だから過去は変えられないものなのです。
HEAVEN AND EARTHまでファフナーはとても少女漫画的な作品でした。
ところがEXODUSは少女漫画的要素を薄め、受容するばかりでない抵抗と希望を積極的に勝ち取る姿勢をあらわにしはじめました。
それが「運命に抗うことで見出される希望」というキーワードに表れています。
運命をただ受容していたら無慈悲で残酷な絶望しか残らず一番希望に満ちた未来にはたどり着けませんでした。
抗わなければならない。しかし過去は変えられない。だからカノンは未来を変えたのです。
(運命を受容するタイプの少女漫画では、「今」を変えて未来に繋ぐことはあっても「未来」に干渉することもできません)
また、「力」という言葉を多用するようになります。
乙姫は「受け入れること」を理解すべき力だと言いましたが、織姫は与えられた力を能動的に利用することを正しく理解せよと乙姫以上に突きつけました。
支配力へのまなざしも強め、ニヒトとレゾンの支配性の対比も描きました。
「力」をコントロールできるかどうか。今までのファフナーでは命題にならなかったことです。
そして過去が現在に寄り添う物語から目標を未来に設定してそこへ到達しようと邁進する物語へと変化しました。
少女漫画の構造ではあまり主流だと言えないものです。
君は知るだろう
本当の悲劇は絶望によって生まれるのではないことを
運命に抗うことで見出される希望
それが僕らを犠牲へと駆り立てた
(『蒼穹のファフナーEXODUS』13話)
ファフナーは運命をただ受容する物語を手放しました。
そしてそれは「輪廻の解脱」に帰結しました。
すなわち、一騎が人の生死のことわりを抜けました。(もしかすると「同じもののコピー」となって「生命の本質からはずれた」かもしれない総士もそうと言えるかもしれませんが先に言ったようにここでは問題にしません)
「運命」とは絶対に抗うことのできない超自然の支配的な力です。
その究極が死。それは単なる「因縁」の意味での「運命」ではない、「大いなる運命」に回収され得ます。
この救いようのない、変えようのない「死」をも少女漫画は受け入れます。
けれどもファフナーはそうではなくなりました。
「全ての虚無」から「輪廻の受容」を得たファフナーが「輪廻の解脱」に帰着したのです。
さて、「前世もの」を見ていきます。
二代目総士は「前世」(とあえて言います)の初代皆城総士とはどういう距離感であるか。
前世ものにおいて「前世」は基本的に「現世」を縛り脱却すべき枷となります。
「おれはフルトゥナなんかに負けねえ!!
フォンにも ヴァンにも フロウにも!!」
(『スピリットサークル』水上悟志/3巻p22)
しかし少女漫画寄りの作品は前世の自我をも含めて現世の自己に引き継ぎそれを受け入れることができます。
今までのように少女漫画的な物語であったなら、ひょっとすると二代目総士と初代総士の自我が統合される可能性もあったかもしれません。
「なかった事にも…忘れる事もしない
全部まとめて俺だから」
(『ボクラノキセキ』久米田夏緒/4巻p90-p91)
ファフナーは少女漫画ではありません。
少女漫画ではなくなりました。
織姫は芹とともに皆城乙姫の灯籠を流して乙姫に別れを告げました。
皆城織姫は皆城乙姫とは別の存在であり、二者の人格は統合されませんでした。
総士は記憶を失いました。記憶が欠け左目の傷を失った総士はもはや我々の知る皆城総士ではなくなったのです。
しかし初代総士は二代目総士の「脱却」すべき枷になるでしょうか。
二代目総士は「前世」を切り離して今だけの自分の人生を生きるべきなのでしょうか。
制作スタッフ陣含め我々は皆城総士への愛着を脱却したくはありません。
加えて、言うまでもなくファフナーは過去を捨てるような冒涜を許さないのです。
未来を求める物語に変わってもずっと、過去は寄り添っています。
よってもしもEXODUSの続篇があるとすれば、ファフナーは「違う人間だけれども本質は同じ」という描写を採択するのではないかと個人的に思っています。
それは既にEXODUSにて皆城織姫の本質が皆城乙姫と同じであったという描写で示されました。
参考:
彼の中にもある生まれ変わっても変わらない業。
(中略)
それが「君」の正体なんだね
(『妖狐×僕SS』藤原ここあ/8巻p33-p34)(中略は引用者による)
だからそのときは一騎が「お前って本当に不器用だな」と言ってくれるはずです。きっと。
(私自身はあまりEXODUSの続篇は望んでないですが)
さて、ファフナーは少女漫画でなくなったと言いました。
しかし少女漫画性を完全に破棄したわけではありません。基本的には運命を受容する物語です。
だからこそ輪廻を解脱した一騎が異質な存在なのです。
その一騎も「俺は、お前だ。お前は、俺だ」の受容の精神をEXODUSでも発揮しました。
参考:
少女漫画を読んでいると、戦後民主主義がことあるごとに唱えてきたアクティブさが機能不全に陥り、何かをそのままの形で受け容れるという瞬間が訪れた時に救いがやってくることが多い、受容性がむしろ何かを生むきっかけになるということです。
(『戦後民主主義と少女漫画』/飯沢耕太郎 章:終章 純粋少女と少女漫画のいま 節:少女原理とは何か? 7段落)
「運命を受け入れなさい
たとえどんなものでも人と彼らの架け橋になるために」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』8話)
「すべてを受け入れて世界を祝福するとき、誰もが希望に満ちた未来を開く
いつだってそれは信じていい未来なんだよ。総士」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)
祝福を受け入れ自身が世界を祝福し、清濁併せた運命を受容する。
それゆえに過去からつづいてきた今を肯定する。
たとえどんなにつらい思い出があっても過去は絶対に変えられない。いなくなってしまった人を取り戻すことはできない。
「平和な夢は見られたか、一騎」
「よく寝た。いい夢だった。たぶん」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』9話)
この夢は「翔子も衛も誰もいなくならなかった夢。だけど過ぎてしまったことだからたぶんと付け足した」のだと明かされました。(2015/5/24『蒼穹のファフナーEXODUS』スペシャルイベント-痛み-にて。うろ覚えですが)
これはまさに過去からつづいてきた今、運命の受容です。
過去があるから今がある。過去からつづいてきた今をもって未来へ繋いでいく。
少女漫画の前世ものはそれを静かに受容できるのです。
参考:
ここで語られているのは、けっして停止しない永遠の回帰の感覚である。そこには依然、葛藤もあり、苦しみもある。だが、世界は私である。たとえどんな存在の仕方にせよ、「私」は世界に影響を与えている。世界は私無しでは、いまとは違ったものになってしまうのだ。
(中略)
今まであなたの生にかかわってきた「生命」たちは、「あなた」の身体を通して、「未来」に還っていこうとしている……。
(『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』藤本由香里/p322-p323)(中略は引用者による)
「私達はみんな未来へ…未来へ還るの
幾度も転生を繰り返して
銀河系も…地球も…回帰…しながらみんな未来へ還っていくんだわ
貴方が…こんなに懐かしいのも きっと…未来でまた出逢えるからなんだわ」
(『ぼくの地球を守って』日渡早紀/20巻p26-p27)
「ねぇ、あの向こうには何があるの?」
「世界と、お前の故郷が」
「世界、故郷……」
「…………行こう、総士」
(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)
君は知るだろう
苦しみに満ちた生でも存在を選ぶ心。それが僕らを出逢わせるのだと
世界の祝福と共に僕らは出逢いつづけ、まだ見ぬ故郷へ帰りつづける――何度でも
(『蒼穹のファフナーEXODUS』26話)
総士はすべてを受け入れて生まれ変わる道を選びました。
過去を受け入れ今を肯定し未来の今へ生を繋ぐ。
竜宮島が「故郷」であれるのはたとえ姿を変えようと総士のその魂が懐かしい未来へと還っていくからなのです。
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『ぼくの地球を守って』研究のために印刷してた『私の居場所はどこにあるの?』p321-p323を放送中何度も読み返していた。
私の人生の根幹はぼく地球なのでこそうしが「懐かしい未来」を手に入れたことにどれだけ興奮したことか。
私の嗜好これなんだなあと改めて。「懐かしい未来」、昭乃さんもまたそうである。だからEXODUS最終回当日の昭乃さんのライブ号泣して大変だったのだ……。
見たこともない風景 そこが帰る場所
たったひとつのいのちに たどりつく場所
(VOICES/新居昭乃)
少女漫画性というより母性云々といったほうがいいのかもしれないがそのへん浅学だしあんまり「母性」に固着した物言いは苦手(というより母性礼賛のイデオロギーが苦手)だし少女漫画のほうが馴染みがいいからなあ。
それと現代における「少女漫画」という語の「恋愛もの」に限定した扱われ方を相対化したい思いはいつでもあるから……。
でも「基本的に少女漫画である」というよりは今まで「陰」の物語であったファフナーがEXODUSで「陽」の要素を強化し全体性を獲得したと見るほうが本質に近いと思う。
そしてとりあえず提示された情報的に総士とこそうしの人格は統合されないと個人的には見ていますけどそこまで絶対にありえない話か?と言われればわからないし妄想は自由だと思うんですよね。
過去を受け入れ統合しないかなあ。
過去を受け入れる前世ものだって別に常に人格統合してるわけではないけれど。
参考:
わたしたちはすでにわたしたちではなくわたしなのです
わたしはわたしであることを受け入れました…
わたしであることの希望と絶望の両方を…
(『イティハーサ』水樹和佳子/15巻p30)(傍点省略)
RYUTist聖地巡礼
新潟県の地方アイドルグループRYUTist。
活動拠点古町まで行ったのは今回3回めですが、地元のヲタともだちに案内してもらって簡単に聖地巡礼してきました。
まずは『Bitter Pain , Sweet Revenge』のジャケット写真ロケ地。
背後に信濃川が見えるので結構楽に探せます。
道順は車で案内してもらったのでまだ自分では行けません。
一本橋である万代橋ではなく、二本橋の下です。
新潟駅側とは反対のほうで撮影したもよう。
次、どっぺり坂。
新潟駅から一本道で行ける。異人館に挟まれているみたいです。
古町を一望できて結構綺麗。
手すりを支えるいかりがかわいい。
『どっぺり坂』の歌詞で風が潮風になる、みたいなことを歌っているので潮の匂いがするかしらんと思ったけど特にそういうことはなく。笑
でも少し行った先が日本海で綺麗でした。
次は新潟空港。
『Beat Goes On!~約束の場所~』の裏ジャケロケ地。
『Arrivals and Departures』ってこと?
もうCDは廃盤になっていて、まあ私はCDはライブの物販で少しずつ買ってるだけのファンなんですけど、当時の音源が聴けないのはちょっと残念です。
お土産やさんを見たらNGT48のコラボ商品が売ってました。
今年上半期は新潟まで行く気はなかったんですが若奈ちゃん卒業と聞いて急遽行ってきました……。
正直めちゃくちゃ悲しいです。
最後に一目見れてよかった。
これからどうなるかわからないけど、でも、私はまた古町まで彼女たちに会いに行くと思います。
今日はともちぃの誕生日、おめでとう。
画像引用:RYUTist online-shop
ブログお引越し
ブログ引越しました。
青い月のためいき
正確に言うと漫画・アニメ系セク系のよしなしごとの記事を移動させました。
いや、せっかく検索のいいとこに表示されたりしてるので、こっちのほうを消す気も今のところなく移動というかコピーなんですけど。
今後考察分析のたぐいはそちらに書く予定です。
こっちはまあのらりくらりと。
なんにしろ更新頻度元々低いのがどっちもさらに下がるだけだと思いますが。
まあああいうの書くにはどことなくアメブロ居心地悪いからね……。
たぶんそっちで飽くなき少女漫画やらファフナーやら昭乃さんやらセクシャリティーやらのあれこれをつづっていくと思います。
ではよろしくお願いします。
新居昭乃Little Piano Tour vol.6最終日 2016/5/15ライブレポート
なんかわーーーって書きたくなったので今までの私のなかで(消した記事含め)最速レポートになる。ライブ終了6時間後て。
本日のセットリストは今までにリリースしたアルバムのなかから事前リクエスト投票を募って、それをだーっと20位から1位まで順番に並べたもの。
MCの合間前方スクリーンにランキング発表として順位と曲名が映し出されるのが面白かった。
MCも少し多めでホーム感あって楽しい雰囲気。
セットリストは倣って順位で書き出します。
それと今日はMCで昭乃さんが「これは○○ってアニメの曲で~」ってよく言うなーと思ったので提供先のアニメもうしろに記してみました。
昭乃さんは途中途中「これ、、なんの作品だっけ?」「ED? だったかな?」とあやふやだったので観客から助け船を出されたりしてましたけど……。笑
ファンは大抵わかっている……。
セットリスト
20位 蜜の夜明け(狼と香辛料)
19位 月の家(星方武侠アウトロースター)
18位 遥かなロンド(ぼくの地球を守って)
17位 空から吹く風
16位 スプートニク
15位 キミヘ ムカウ ヒカリ(ゼーガペイン)
14位 星の木馬(地球防衛企業ダイ・ガード)
13位 月からの祈りと共に(ぼくの地球を守って)
12位 風と鳥と空(ロードス島戦記)
11位 パンジー
10位 さかさまの虹(ロードス島戦記)
9位 WANNA BE AN ANGEL(マクロスプラス)
8位 花かんむり
7位 金の波 千の波(ARIA The ORIGINATION)
6位 叶えて(あやつり左近)
5位 ガレキの楽園
4位 きれいな感情(NOIR)
3位 Moon Light Anthem~槐1991~(ぼくの地球を守って)
2位 空の青さ(パルムの樹)
1位 覚醒都市(東京アンダーグラウンド)
――アンコール――
Little Piano Song(新曲)
並べてみるとやっぱりアニメ提供曲強いね!
確か投票自体は誰でもできるから普段あまり昭乃さんのライブに行かない人も結構投票したのかな?
ただまあアニメ自体曲自体が有名だからどうなるってアーティストでもないと思うのでわりと純粋に「聴きたい」曲の順位になったんじゃないかと思います。みなさん菅野よう子大好き問題。
VOICESや美しい星なんかはライブ定番曲だし今回のツアーでも前振り的な形で歌っているので入らないのも頷ける。
私はツアー初日の『妖精の死』が素晴らしすぎたのでこれに投票したんですが報われませんでした。笑
でも昭乃さんは順位なんてあってないようなものと言っていたので本当に僅差の争いだったんでしょうね。
以前自由記述のリクエスト募ったときは票が1票ずつになるレベルでばらけすぎて困ったという反省からか今回はアルバム収録曲限定の選択形式でした。
こういうセットリストだと、「あーそうきたか~人気だもんね~」とか「わかる!! これライブであまり歌ってくれないけど聴きたいよね!!」って、他の観客と勝手に同調してる気分になる。笑
20位 蜜の夜明け
なんかライブ一曲目がこれ、というのはとても新鮮で、粋だと思った。
例によって昭乃さんは一曲目声の調子が悪いんだけど今日は二曲目にはすぐに持ち直したし、この曲はこれはこれで味が出ていた気がする。
「♪歌う鳥よ……」の「う」が少々出づらそうになりつつもひねり出した感じになってそれがなんか知らんが曲を跳躍させていて鳥肌立った。
ピアノアレンジがちょうどいい受け皿になっていて好き。間奏部分も。
リリースしたばかりのライブのとき昭乃さんが『狼と香辛料』を「すごーく大きい年の差カップルの話」とまとめていたのが結構印象に残ってる。
新作始動嬉しいなー……アニメ三期やってほしいまた昭乃さんOP歌ってほしい……。
19位 月の家
人気曲ですねーもっと順位高いかと思ってた。あと今回昼の月がなかったのは少し意外かな。
18位 遥かなロンド
円形と左右対称が印象的な映像。
「回れよ回れ」からきているんでしょうか。思い出させるは輪廻転生ですね……。
17位 空から吹く風
昭乃さんはこれがランクインするのが意外だったと言う。こういう曲が埋もれずに発掘されるのがリクエストの醍醐味ですね。
私も生で聴いたのはたぶん今回のツアー初日が初めて。
それで比較がしやすいんだけど、この曲相当練習したんでは? 今回のツアーで何回歌ったんだろう。
前回はCD音源に近く軽快にピアノが跳ねていった記憶があるんだけど、今回ピアノにも声にも余裕となめらかさが加わり優しく柔らかい印象になっていた気がします。
16位 スプートニク
これもなんか優しい印象だった!!
アレンジは今回のツアー通して同じ打ち込み音源メインだったと思うけど、前回赤レンガで聴いたときはもう少し冴えた雰囲気で真正面から向かってくる感じだったような?
スプートニクはライブ定番曲でもあるけどそのたび新しい面が見えてくる気がする。
15位 キミヘ ムカウ ヒカリ
「この二曲はライブでもよく歌ってる~」と始まり、スプートニクはわかるんだけどこれそんなに歌ってるんだ??
去年ほぼライブ行ってないから歌っているのかもしれないけど、私は生で聴いたのたぶん2010年の年末ライブ以来だからめちゃくちゃ嬉しかったよ!!
今年ゼーガペインが10周年で盛り上がってるから……キョウとカミナギの幸せそうな姿の幻覚が本当に見えて感極まった。。
ぜ、ゼーガのための新曲……とかないか……。
映像テーマは「水」と「羽」。まさにゼーガペイン。
海に潜ってサビで光の羽がぶわっとたくさん舞う。これも静かに陰陽織りなされた曲なんだなあ。
14位 星の木馬
だからなんで昭乃さん外国語なんて歌いづらいコーラスをその場で歌わせようとするの笑
以前もこの中国語の部分歌わせようとしてみんななんとなくで乗りきった感じだったけど、今回はちゃんと前方スクリーンにカタカナに直した歌詞が書いてありました。(でもこの曲映像があったはずなのでちょっと見たかった)
なのでコーラスは余裕で歌えるけど、またもやいきなり「サビでハモってほしい」と難易度高いことを……笑
私も最初のハミングまではなんとかなってもハモる技量はありませんでした。。できる人はできてたかな?みたいな雰囲気。
でも昭乃さん合唱すると本当に嬉しそうでこちらも幸せになるから頑張ろうって思うよね……。
細かいけどCD音源では「ずっといきていこう」の「いこう」に急所があって、ここは「いこう」であって「ゆこう」ではないのがひらがならしさがあって好きなんですが、今回一番だけ「ゆこう」と歌ってくれて、これはこれでレアでいいものを聴いたなあ、と思った。
13位 月からの祈りと共に
アニメ挿入歌、歌詞のない子守唄がランクインするのはさすが昭乃さんだなあ……。
私が昭乃さんに強烈に惹かれるきっかけとなった曲。今回ぼく地球の曲3曲も入っていて満足だよ……。
いつもは「ラララ……」がずっと続くけど、今回は「ラチュラ……」って感じでchu音が入っていた。
12位 風と鳥と空
年末ライブでは確か映像なかったよね?
それ以前にどこで聴いたか思い出せないけどほとんどの曲に映像がついてくると楽しいなー。
11位 パンジー
これ初めて聴いた、かも?
こういう、あまり披露されないがゆえに潜在的な人気が高まるような曲が多くなるのかな、と思っていたけど、結構ストレートに人気な曲が多かったかな。
個人的にそういう意味+ファンになりたての頃とても好きだった曲なので聴けて嬉しかった。
思想色強いのでとても刺さる曲……。
「脱北者のことを思ってつくった曲で、そういうので多少なり印税もらっていいのかなと悩んだけど、相談した人に「思いはいつか届くからいいんだよ」と言われて歌うことに決めた曲です」
10位 さかさまの虹
久しぶりにこの映像見たなー。
この曲も根強い人気を感じさせるけれど、私は比較的思い入れの少ない曲なのでへえ……と思う。
9位 WANNA BE AN ANGEL
今日声の調子よかった……!
のびのびと声が響いて気持ちいい。
やっぱり相当根詰めて練習したんじゃないかしらと思ってしまう。
ライブでこの曲といえばラストの盛り上がりのほうに入るのでいつもは終わるとすぐ昭乃さんが「ありがとうございましたー」と頭を下げて極まる拍手、の流れになるけど、今回は中盤ということで「このあとまだいっぱい聴けるんだ……!」という嬉しさを感じた。笑
8位 花かんむり
今回の合唱曲2。
ほんと合唱すると楽しそうに声跳ねるよね昭乃さん……もっと公演ごとに全然別の曲やっても対応できると思いますよ……。まあ昭乃さんのほうが大変かもしれないけど。
途中昭乃さんが歌わずに観客の声だけ聴いたりして、本当に聴きたいんだなあ、歌ってくれるのが嬉しいんだなあというのが伝わってくる。
声の感じから、今日は男性客多めだったのかな?見渡した程度ではいつも通り男女比半々かなと思ったんだけど。
ただ今日は昭乃さんのほうが歌詞を間違えて観客ともどもちょっと混乱したりもした。笑
7位 金の波 千の波
個人的に一番意外な順位。
『ARIA』側からは「これから始まる、という曲で」というオーダーだったらしく、昭乃さんの「陽」の部分が開放していった時期の筆頭曲という印象だったんだけど、久々に聴いて「どんなときでも空がそこにあるの 見上げるだけの力を与えて」……ってやっぱり昭乃さんじゃないか……と今日思った。
空を見上げるだけの力。ちいさき者の些細な力。
それだけのことを昭乃さんは眼差して肯定してくれるんですよ……。
映像は昭乃さんの絵。まんま『ARIA』のゴンドラ。それが、天の光へ向かっていく。
映像もライトもオレンジ基調の温かい空気でした。
6位 叶えて
このへんから大分残りの曲が絞れてくる。
それまでがあまり見当つかないというのも新居昭乃曲の面白いところだなと思います。
去年やっとこ『あやつり左近』のアニメを見れて、叶えての素晴らき切なさを深く知ったんですけど、今日は切なさよりもやっぱり優しさ溢れる声の日だったな。
5位 ガレキの楽園
アニメ提供曲揃いのなかでこれは違うけど、『鉄コン筋クリート』をイメージして作られた曲。
今までアニメ版を見て、だと思いこんでいたけど漫画版からのイメージだったんだ?
個人的なこの作品の物語体験はまんま昭乃さんの曲を聴いているときのようにちいさき者たちの透徹した視線が深く根差して染み渡っていく心情にさせられたというものなので……「戦う」というのは強さではないんだ……。
ステージいっぱいの赤いライトが本当に似合う曲だと思う。
久しぶりに保刈さんのギターで聴きたいなあ……今保刈さんは昭乃さんのアルバムの仕事でたいへんお忙しいもよう。
4位 きれいな感情
昭乃さんのピアノなしで音源が多分CDと同じものだったからか、基本に立ち戻ったようにCDと寸分たがわぬささやくような愛がこもっていて、「ライブ感」を重視する私もこれはよい心地だな、と思った。
14歳の初恋の曲という。これも『NOIR』側からのそういうオーダー、みたいなニュアンスで語られていて少し驚いた。そうなのか『NOIR』……。
昭乃さんは様々なプレッシャーでつらかった時期があったそうなんですが、先ほどパンジーについて相談した方に昭乃さんは8歳のままなんだよ、8歳の子供が責任を負わされてるからつらいんだよと言われて楽になったとMCにて。
昭乃さんのいつまでも純粋な妖精さんみたいな感じは、8歳のままの心を持ってるからかもしれませんね。それは本当に稀有なこと。
そうして私たちは浄化されてしまう。
3位 Moon Light Anthem~槐1991~
ぼく地球曲3曲め!!
これも確かに人気があるのはわかるけどこんな高い順位だというのは少し驚き。
凄く切ない曲だと思うんだけど映像がなんか豪華な月。
ぼく地球4巻時点で作った曲だっというのは初めて知った。(OVAの企画その頃からあったんだな……)
一成が一番つらい時期のね……「死」という言葉が入ってる昭乃さんの曲は確かこれだけだったと思うんだけど、今回特に、重たく響かせていた。
昭乃さんいわく「歌わせてもらえることがありがたいと思った曲」。
「『空の森』に収録された音源をもう越えられないと思う」と。その昭乃さんの幸せな気持ちを汲んで音源を聴きなおしましょう……。
2位 空の青さ
うわ~~~今回の泣き所……。
空が大好きな昭乃さん、今回のライブでも遠い空へ帰っていったり空から風が吹いてきたり空から闇へと吸い込まれたりヒカリの羽が空へ広がったり空の悲しみを忘れなかったり空には届かないと笑ったり空がそこにあったり空ばかり見ていたりという歌詞が続いていたけれどやはり「空」の集大成といったらこの曲か……納得の順位。
『パルムの樹』はまあ特に好きな作品でもなくちょっと他のアニメの話になるけど今日のライブで完全に私のなかで蒼穹のファフナーEXODUS最終回の総士イメソンになってしまった、、泣く。
今日一番のすすり泣きが周りから聞こえる。
「♪君が涙を流すときには……」の入りがいつにもましてウィスパーボイスで、本当にそっと心の内側に入り込んでくるのが恐ろしいほど。
昭乃さんが歌うために生まれてきたというのは、紛れもない事実であると思う。
1位 覚醒都市
絶対1位だと思ってたよ!!
前のリクエスト投票のときも1位だったよね?
昭乃さん的には「地味な曲だと思うんですけど……」と戸惑いのご様子。まじか、昭乃さんの「悲痛なやさしさ」真骨頂だと思うんですが……。
私も昔は好きというほどでもなかったのだけど、たしか2008年のアキノスフィアのときだったかな、それの一曲目にこれがきて意味わからないほど涙流して以来大好きです。
そのときから変わらないいつもの空を五線譜が駆け巡る映像で、締め。
アンコール Little Piano Song
アルバム収録予定のできたて新曲。
歌なしのピアノ曲がアルバムに入るんだー、初めてだね。
『Magic Garden』もあとから歌詞入れたりしてたのに。
出だしがちょっと『At Eden』と同じ音?っぽかったです。
いやー、面白く濃いライブでした。
ほんとただ書きたいだけの一心でいつもレポには書かないことまで書きすぎた。
ただ『ソラノスフィア』以降の曲が蜜の夜明けしかなないのはちょっぴり残念だと思っていて、まあ、新規のファンより昔からのファンのほうが圧倒的に多いので当然だとは思うんですけど、人気という形で日の目が当たってほしい曲も結構あったり……。
今日出たこれら納得の人気曲以外から投票させたらどんな順位になるのかも気になります。まあそれでも多分私だって妖精の死とか凍る砂とか昔の曲選ぶだろうけど笑
いや本当に今回のツアー大変だったと思うんですよ。
昭乃さんはMCで冗談めかして「やめちゃっていいかな」とか言っていたけど、何十曲もの曲を覚えて練習して、アルバム仕様とリクエスト仕様のセットリストを用意して、しかも夏に出すアルバムの準備もしてなんて、つらくないわけがない。
言ってしまえば昭乃さんは既に一定数のコアファンを獲得している安泰なアーティストだからなにも無理して新しいこと珍しいことを画策する必要なんかないと思うのよ。
それでもファンを喜ばせるためだけにいつものリトルピアノと趣を変えてこうして披露してくれるのは本当にありがたいと思ってます……。
今回のツアーは三ヶ所行ったけど、最終日の今日以外は終演後他の場所のライブのチケット購入列が結構並んでいてみんなアルバムライブツアーに興奮したんだな~と思った。
私も!スタンプラリーで景品もらいたかった!!けどアニメの円盤イベントグッズや地方アイドルの遠征費用にお金を回さなくちゃならなくて三ヶ所が限界……。
せめてとツアー中久しぶりに昭乃さんへファンレターを書きました。アルバムライブへの喜びと感謝、一番好きなアルバム『降るプラチナ』のセットリストを聴けた嬉しさを書き連ねたけど、どうか気持ちが届いてますように。
まずは8月21日(目標)の新アルバムが楽しみ!!
彼氏ができました。(追悼文)
男を選んだ自分を納得させるために、「まあ人生のなかで一回くらい女と付き合ってみるのもいい経験だったよ」と、思いかけたところで悔しさに過呼吸を起こした。
所詮女同士は一過性なんだよ!!私はもう二度と女を選べないんだよ!!なぜなら女だからな!!!!
悔しい。悔しい。開けた女になんかなってやらない。負けた自分が悔しい。屈した自分が悔しい。
男なら誰でもよかったわけではもちろんない。いくつかの理由のうちのひとつでしかない。でももし彼が女だったら絶対選んでない。
同性愛なんてつらい。もうあんな思いは絶対したくない。できない。社会の抑圧に対する無力感を全身で感じながら「女同士が一過性だなんていうヘテロセクシズム、ミソジニー、ふざけんじゃねえ私が証明してやる!!」とかなんとか折れないように立っていたくない。
少し蓋を開けただけでトラウマが蘇ったのだ。
私は別れの理由が「女だから。閉塞たる思春期の高校生活が終わったから」になることが怖かった。社会に屈することが一番怖かった。
女子校じゃなくて共学の中の恋愛だったから。男から好かれようが私が好きなのは彼女だからと女を選択しつづけたから。その事実に安堵していた。"それでも"私は女を選んだから。私は機会的ではない、女を選びたかったから選んだのだと。思春期一過性、そんなちゃちな一時の感情と無化されることに耐えられなかった。
戦っていたんだ。私の矜持だった。彼女がどんなに女同士に恋愛があるわけないと思い込んでいても、ちがうね思い込んでいたからこそいっそう、私は一人で戦っていた。
敗北しました。
マジョリティーになりたかったです。憧れでした。戦わなくても容易に可視化される世界に生きたかったの。一緒にいるだけですぐに恋人だと想定してもらえる世界に生きたかったの。
悔しい。今やっと、心から、敗北した事実を認めます。
ごめんね。さよならね。戦っていた自分さよなら。ごめん。本当にごめん。
上記、コピペ。
負けたから、負けたなりに、私の戦いを悼んでおこうと思う。
久しぶりに私生活のたぐいをブログに書きます……。考察ブログ分けといてよかった。でもこのへんの話は当時ほとんど書いてなかったんだよなあ。なんでだろうと思ったけどこんなにつらかったことに気づいたのもここ1年のことですしね……。
戦っていた私へ。謹んでお悔やみ申し上げます。
二年半付き合った高校時代の彼女はホモフォビアを骨の髄まで内面化した人間だった。
マジョリティー=正しい、マイノリティーは問答無用で間違っている。そう思い込んでいた。
そんな私たちの恋愛は得体の知れない「世間」に、「男」に、ずっと縛られていた。
異性愛が正しい。同性間に恋愛なんてあるわけない。だから私たちの関係は恋愛ではない。自分の持つのは恋愛感情ではない。
彼女はずっとそう思っていたのだ。
ある日私が男にメールアドレスを聞かれた。
それを彼女に恐る恐る報告したら、席を立たれた。すぐに電話がきた。
「男にモテたいー羨ましいー」
「今? 恋愛してないよ」
「(男女以外のものは)恋愛じゃない」
「友達として、好きだよ」
「逆になんで女にも恋愛できるの?」
「いや重要でしょ、男と女であるべきでしょ」
「(私のこと好きって、付き合うって何度も言ったじゃん)いやうちはずっと友達としてとしか言ってないし」
「(私への気持ちは恋愛感情じゃなかったの?)それが今もわかんないんだよね……まあ、紛い物ですよ」
「人に言えないじゃん、何も」
「はあ? お前バカ? 言えるわけないじゃん。そんなことしたら終わる。今まじで呆れた」
翌日登校したら、「ごめん、昨日の忘れて! ずっと考えてたことが爆発しちゃっただけだから」とかるーく流されて、終わった。
私は彼女が「ごめん」とか言えるんだ、と思ってびっくりしてたら怒れないまま感情の置き所がわからなくなってしまった。
なにも言えないままその後一年以上付き合い続けた。
彼女に、それは内面化ホモフォビアでしかないと、そこにいても苦しいだけだと、異性愛至上主義なんて私は大嫌いだと、言い続けていた。
けれど彼女にとって正しいのはマジョリティーのみなので、マイノリティーに過ぎない私の意見はすべて取るに足らない戯れ言なのだった。だから彼女もひとりで悩み続けた。私の介入する隙は一切なかった。
私はその男に対して、「彼女の目があるところでアプローチや告白の呼び出し等してきませんように」とばかり思っていた。
告白されてからは彼女にタイミングを慎重にはかってはっきり報告したのに数ヵ月後「(別の友人)からさっき初めて聞いたよ。どれだけショックだったかわかる?」と言われて脱力した。
私のことを好きだという男が、彼女に恋愛相談をしたこともあった。
私からしたら急に彼女に無視されはじめて、嫌われたのかと落ち込んでたらここ数日やたら話しかけてくる男が現れたなって感じだった。
あとから判明したことに、彼女が男の告白をお膳立てするためにセッティングしたのだそうだ。
「○○くん、(男だからお前と付き合えるはずなのに)かわいそうだなって……」
私の気持ちは丸無視か? きみを好きだって言って他の人になびく気もない私の気持ちはかわいそうじゃないのか?
そんなにも同性愛は蔑ろにされるべきものなのか?
それからしばらく経って、私を無視していたその間彼女が知らないところで泣いていたことを知った。
付き合ってから三ヶ月経ったくらいに、「他に好きな男子がいる」と告白されたこともあった。
でもその後別に特になにかがあるわけでもなく、たぶんこれも「異性と恋愛すべき」だと思ってたからだろうなあ。
自分に子供ができたらという話をナチュラルにしてきたと思えば私が子供の話をすると黙りこんで不機嫌になる。
「ビアンカップルで子供育ててる人もいるよ?」とか切り出せば「は? 無理でしょ」って席立って帰る。
その手の話は地雷になった。
「友達としか思えない」と言われ何度か(3、4回?)振られたけどこれは前述どおり同性間に恋愛がないと思い込んでいたための葛藤でしかなく、時間が経てば謝罪も契約回復の言葉もなしに復縁。
そんなことがあるたびに大騒ぎで振り回され理不尽なヘテロノーマティビティーに付き合わされなくちゃいけない。
事を荒立てて彼女の機嫌を損ねたくなかったので私は怒れずになんでも許した。
セクシャリティ関連でなくても揉め事は多発してたけど、喧嘩をしようとしても彼女はただ不機嫌になって黙したままか凝り固まった自分の言い分のみ当たり散らすかどちらかで私の話に耳を貸した試しがなく譲歩案はすべて棄却され、建設的な話し合いができたことは一度もなかった。
親が大事。世間が大事。いつか蜜月は去ってしまう。
思春期一過性(笑)恋愛と友情の混同(笑)儚いからこそ美しい百合(笑)
そんな異性愛至上主義に決めつけられたくない。私だって悩んでこれは生来の指向だとアイデンティティ確立してきたのに。彼女だってどう見ても私に恋をしていたのに。
そして彼女はずっと自分をヘテロ自認だと言い張ってきたけど別れてから「実は前からバイだった」とのたまった。私の不安はなんだったのか。
彼女のことは好きかつ嫌いだった。好きでも別に嫌いだって大きくていいでしょうと思って、私は私の好きにのみ執着した。
上にも書いたけど、私が一番怖かったのは「女は男と付き合うべきで、異性愛は同性愛よりも重きを置くべきなので、男と付き合うことにしました、(あるいは)男と付き合ってください、別れよう」と結論づけられること。
私たちの恋に一微たりとも関係のない、社会のヘテロセクシズムの抑圧によって、私たちが壊されてしまうこと。
ヘテロセクシズムに絶対屈服したくなかった。異性愛を同性愛よりも優れていて正しくてあるべきものだなんて認めたくなかった。認めている彼女のことが許せなかった。
バイであることはゲイに疎まれる理由でしかないと思ってた。
外では手も繋げなかった。少しでも触れれば勢いよく振り払われた。
二人だけで一緒にいたいと思ったときも、友達同士だとしか思われてないので、他の女の子たちが次々に周囲に集まってきた。
可視化されない。いないことにされてる。いないことにしてる。
私だって友達に彼女との関係を言いたかったよ。受け入れてくれそうな友達だってたくさんいたよ。
それでも彼女は引かれるだけだと言っていた。なんで信じてくれないの。
「彼氏いる?」って言われて「彼氏"は"いないよ!」って返したり。
彼女とばかやって他の友達から「夫婦じゃん!w」ってからかわれて、彼女が「いやいや違うよー」と否定するなか私は絶対に否定するものかと曖昧に笑ったり。
それだけが私の精一杯の抵抗だった。
高校の違う親友にカムしたとき、「彼女できたのかー! 彼氏じゃなくてよかった。彼氏だったら取られたーって思っちゃう」と言われた。
「結婚するなら相手どんな男がいいかなー! スピーチするね!」って執拗に言われたこともある。
あとで聞いた。他意はなかったらしい。でしょうね。
バイト先の同僚には「彼氏がいる」という体で話をしてきた。
でもある日話に無理が出て、加えて私自身可視化されたかったので、カミングアウトした。静かにドン引きされた。
友達に「同性愛者? 日本にもいるの?! 無理無理無理!!!」って目の前で言われたこともあったな。その子はテレビの中にいる、男と見るやスキンシップを試みるゲイキャラ芸人が好きだった。
好きになりかけた女の子に真顔で「同性愛って気持ち悪いよね」って言われたこともある。私は「自分に関係なければいいんじゃない?」と返した。自傷だ。
クラスメイトの男の子が、目の前にいる私たちが同性カップルだと想像だにせず、「○組の○○って知ってる? あいつホモだよ。最初はネタキャラかと思ってたけどガチ、気持ち悪い」と嫌悪をあらわにしたこともある。
ネタ的に(本当は違うのはわかってるよ、と留保つきで)男の子がゲイ扱いされて笑われてたこともある。その子は否定も肯定もせず曖昧に笑ってた。ゲイだったのかもしれない。そうじゃないかもしれない。
保健の教科書には「思春期になると異性に惹かれはじめる」とか「母体にストレスがかかることによりゲイが産まれる」とか書かれていた。
保健の授業ではゲイのAIDSを教師がネタにした。
全国模試の現代文に西谷修の『理性の探求』が出て、「同性婚推進者って革命家のつもりかもしんないけどもうちょっと頭使って考えなおせwwwwww」って内容を強制的に読まされ問題解かされた。
理屈で山程反論したかったのにそれができない。理屈を持たない周囲の受験者は価値観刷り込まれてしまう。同性愛で悩んでる人ならどれだけ絶望するだろう。その屈辱。
まとめサイトやヤフコメのホモフォビア剥き出しの書き込みをわざわざ自分から漁りにいってた。
「私の周りの人たちは優しいように見えるけど、本当は偏見も持ってるし差別してるはず、みんなの"ホンネ"に刮目しなければ、普段から慣れておかなければ、いつか急なショックでつぶれてしまう」と思ってた。
そういうなかで同性と恋愛していた。
彼女は味方ではなかった。私は孤独に戦っていた。
高校卒業と同時期に、「きみのモラハラに疲れた」と私から振った。
別れに男が絡んでこなくて心底安堵した。
次は穏やかな恋愛がしたいと思った。
数人の男の子から声をかけられて、特に恋愛感情は湧いてこなかったけど、そういう感じになった。
別にこのときは「ヘテロセクシズムに屈服した」だなんて思わなかった。ただの恋愛だ。泣きたくなるほど平凡な。
その後全然関係ないことで私が大学行けなくなって恋愛どころではなくなり、男の子とも疎遠になった。
それからここ数年は自分のことで手がいっぱいで、セクマイに関心は持ちつつ差別に反発しつつ元カノのことはあまり考えなくなった。
ただ、漫画やアニメを見ていて、同性同士の絆のなかに異性が乱入すると心が掻き乱れ、異性を踏み台にして同性同士がくっつく展開になると滂沱の涙が溢れて癒しを感じるようになった。
なんでこんなに? って自分に引いてた。
やっと自分のことが一段落して落ち着いた頃、言い寄ってきた男を好きになれないなと思って振った。
ほどなくバイの女の子に惹かれる。少し恋愛感情に手を出してみる。
「抑圧」「世間」「男」「親」「子供」「将来」「嫉妬」「すれ違い」
無理だ!!!!!
心の襞にびしばし触れる。掻き乱される。この恋愛感情を他人に預けると死ぬ。また男の存在とか将来の不確かさとかそういうものに振り回される。
手を繋いでも恋人と思われないかもしれない。親に結婚の話をされながらカムできないままかもしれない。ヘテロセクシズムと戦い続けなければならなくなる。死ぬ。
その子がホモフォビアを内面化していないことは知っていた。元カノほどひどい性格の人間はそういないともわかっていた。でも元カノが社会が私に残した傷は深かった。
そんなものに抗えるスタミナはもう残ってない。ただでさえ恋愛は疲れる。
だから男を選んだ。
人前で手を繋ぎたかった。可視化されたかった。いないことにされたくなかった。戦わずして波にのまれたかった。
違う、それだけの理由で選んだわけではない、私は雑念的感情に振り回されて言いたいことを言えなくなる恋愛よりも人として信頼できる人と契約するパートナーシップがほしかった、この人ならそれが手に入ると思った、だから選んだ。
その彼氏っていうのが10年友達やってきた空化なのもひとつのトピックなんですが。
別に恋愛感情から始まらないパートナーシップそのものが悪いと思ってるわけではない。
いずれ恋愛感情になれるだろうともわかってる。感情を偽って自分を押し殺しているわけでもない。
それでも、私は私にがっかりした。
「結局バイは男に逃げる」
「あれだけ安易な異性愛を批判し難儀な同性愛に執着しといててめえも所詮は異性かよ」
そんな声が聞こえる。
単に言い寄ってきた男に流されるならここまで複雑な気持ちにはならなかったはずだ。
好意を示した男を振って、恋愛感情を持てる女にいこうとしたけど踏み込むのをやめ、恋愛感情なく人としてのみ好きだった男に自分から契約を迫り異性愛を選択した。
これが私を後ろ暗くさせた。
今私が男と付き合ったら「そうだよ! どうせ異性愛様なんだよ!!^^」って同性愛に砂をかけたい邪悪な気持ちが心を支配するんだと思ってた。
でも違った。
悔しい。今は悔しい。負けてしまった。戦っていた私は死んでしまった。
女と恋愛することから逃げた。私は男に逃げた。異性愛というマジョリティー特権を手に入れた。
悔しい。
元カノに問いたい。これで満足ですか。あなたが懇切丁寧に同性愛を否定し異性愛を推し勧めたおかげで私は男を選んだよ。あなたの理想どおりマジョリティー様に迎合したよ。今何してますか。知りたくもない。
この先二度と女となんか恋愛するまい。もうあんな思いはしたくない。そう心に誓う。
今書いたのは全部、私の戦いへの弔文です。
健闘しました。負けました。だから私を弔いましょう。
せめてこれで終わらない。私はこれからも負け続け打ちのめされて、負けた自分を抱えつづけていきましょう。かつて女を愛した私を懐古に包んで美化しません。良い経験だったなんて口が裂けても言うものか。女同士は男に愛されるための一過性の練習台だと言う奴は殺してやる。
私は女好きな女である。削り取られたくない。私は断じて異性愛者じゃない。男よりも女のほうが好きだ。無性や不定性の人を性別に当てはめず好きになることができないだろうポリセクシャルだ。
忘れたくない。私の恋心を、ただ女として女を好きでいたかっただけの心を、もし戦う必要がなかったら女と寄り添っていたかもしれない私という存在を、マジョリティー色に塗り潰されたくない。
私の戦いへの、せめてもの慰めです。
異性愛社会が怖い(経過記録)
夢を見た。
父と父の友人が出てきた。ふたりとも私にとって安心できる存在だ。
しかし夢の中で二人は私をころ.すことを計画していた。正確にはころ.そうとしていたわけではなく、別の計画を実行するために致し方なしに私をころ.さねばならない状況になったのだ。
私は手にかけられそうになり、とてつもない恐怖を味わったがしかし、計画は頓挫し助かった。
それからは父も友人もいつも通り優しく接してくれた。
けれど私はあの恐怖が拭えずにいた。二人してまた私をころ.そうとしてくるのではないか。なにかあったらすぐに私をころ.せるだけの用意があるのではないか。
不信感が募り年月が過ぎた頃、私は二人の前で泣いてその恐怖をぶちまけた。怖かった、まだ怖い、と。
しかし二人は私の訴えにまるで無関心な様子で、号泣する私を何も言わず無表情にただ眺めていた。
そこで目が覚めた。
元カノの夢だと思った。
元カノが、私をその意図なくころ.そうとして、私はその恐怖に脅かされながらその後付き合いつづけていたのに、元カノはその重みをまるで理解しなかった。そういう夢だ。
私にとって「同性愛は存在してはいけなくて正しく異性と恋愛すべき」という、元カノのひいては社会権力の思想は、存在をころ.されるに等しいことだったのだ。
夢の中での父=権力の象徴としてのマジョリティー社会、父の友人=それに服従する元カノと解釈できるだろうか、と思った。
昔元カノの目の前で発作的に狂乱したことがある。「異性と恋愛すべき」という差別規範によって私たちの関係が紛い物と思い込まれること、壊されること、屈すること、その終焉が怖くて怖くて何を発声してるかもわからずただ発狂したことがある。元カノは呆然と眺めていた。
これは元カノの夢だ。寝る前に『ユーリ!!! on ICE』の全話感想を泣きながらつづっていたので間違いない。
ユーリの7話で号泣したとき、私はもうだめだと自覚した。
最近この手のものに弱すぎる。
同性愛を肯定してくれる価値観に弱すぎる。
先日もBL漫画を読んでいてぼろっと泣いた。↓ただこれだけの台詞に。
(『可愛い先輩の飼いころ.し方』市梨きみ p161)
だって元カノは隠さなければならないと厳しく私と自己を律したのだ。
ただ「同性愛は異常だから」という一点の理由で。「ドン引きされるだけだから」。
二度と女を恋愛対象とすることができなくなり、せめてこの弱さを薄めるだけの安定がほしくて男と付き合うことにした。
少しは気が晴れるかなと思ったら今度は「社会の弾圧に屈した自分」が悔しくてのたうち回ることになった。それで書いたのが前回の記事だ。
私はもう存在するだけで社会への抵抗になってしまうような関係を構築することができない。抵抗できる余力は残っていない。好きと言われて「他に好きな男がいるのかな?」とか「友達としてってことなのかな?」とか「この関係いつまで続くのかな?」とか常に不安でいたくない。
しかし百合漫画を読んだらもう女を愛せない自分が悲しくなって泣きそうになった。
王道恋愛少女漫画を読んだら異性愛のあまりのマジョリティー特権ぶりに打ちのめされた。
だめだ。
「同性への友情と恋愛感情があやふやになる思春期に同性と親密すぎる関係になって、成長したら勘違いの関係を終了させ健全に本番の異性愛を迎える」
私の戦いがこの呪いに回収されてしまうことが悔しくてならなかった。
私は女が好きなのに。女を好きでいたかったのに。ヘテロセクシズムのせいでホモフォビアのせいでお前らがファッションレズとか勝手に認定してくるせいであんまり同性愛を無化しようと弾圧してくるせいでなんで私がそんな強者に都合のいいクソみたいな呪いをかけられなきゃならないんだ。
セクマイ系が多めの飲みに行ったら、「えっゲイなんだ? タチ? ネコ?」「女装しても本物の女には勝負で勝てないよね」と言い募る人がいた。
接客業の職場で、かわいくて気遣いやさんで始終笑顔の気持ちいい女性客がいるなーと目の保養にしてたら、その人が連れとの会話の中で成宮寛貴氏のことをネタにした。
「ゲイの友達ひとりはほしいですよね~」と悪意なく発言する人の声が聞こえた。
とらのあながカテゴリー分けに「BL・百合」の他に「ホモ・レズ」という表記を使った。
企業が公然とそれをすることの意味を丁寧に説明した抗議メールを送ったら「差別用語だとわかっていてもその検索ワードを使う人が多いので商業上の理由でやめない」(意訳)と返信がきた。倫理ってなんだろうな。
すべてここ3ヶ月の出来事だ。
そんな社会に私は住んでる。
絶望するまでもない。とうの昔に痛みは麻痺した。ただこの社会は私の理想にほど遠い、そういう事実があるだけだ。
元カノのことが完膚なきまでにトラウマであると判明してから、友人数人にそれを打ち明けた。
「男女であるべきでしょ」と吐き捨てられたことが今も深い傷を残してるんだよね。同性愛は存在しないと思い込まれていたんだよね。訥々とそういう話をした。
しかし、なんだか今ひとつ伝わってないな、と感じることが多かった。私のこの傷が、そっくりそのままの重さで共有されてないな、「紛い物ですよ」のくだりを話すべきだったか?、なんだろうな。
例えば「それはさ、たとえ男女の恋愛だったとしてもひどいよね」と言われたり。
例えば「新しい恋愛をすればそっちで発生する不安にかかりつけることでそのトラウマはなくなるんじゃない?」と言われたり。
「えーっ、そこで異性愛が憎いとまで思っちゃうの?」と言われたり。私がとてもひどい事例だと思って話してるのにいまいち反応が薄かったり。
それは話し相手本人がセクマイである場合でもマイノリティー差別に関心が高い人の場合でも同様で、なんで伝わらないんだろうと不思議だった。
5人めに「やっぱり伝わってないなあ」と首をひねったとき、やっと腹から理解した。
同性愛が社会に無化されるヘテロセクシズムの恐怖の手触りは、言葉を尽くしただけでは基本的に「わかってもらえない」。
「男女であるべきでしょ」の呪いも「所詮紛い物ですよ」の呪縛も「友達として好きだよ」の煮え湯も全部、日々社会権力がどれほど同性愛をころ.そうとしてくるかリアルな恐怖として実感しなければわからない。これらの言葉に込められた意味やその背景は、文字面だけでは伝わらない。
元カノが勝手に個人的に同性愛がおかしいと思い込んだわけじゃない。
社会が丁寧に「同性愛は存在しない紛い物だ」「異性愛をしなければならない」「マジョリティーが絶対的に正しい」と彼女に刷り込んだから、その社会の末端で私と彼女の恋愛はまさにころ.されんとしていたのだ。父たる社会の権力に。
「不快な思い」とは何か 日本マクドナルドの対応から考えるメディアと差別の関係
http://mess-y.com/archives/38917
>メディアのコンテンツが度々批判を浴びるのは、単にそのコンテンツ自体が不快であるとか、それを見て傷つく人がいるとか、そういう理由ではない。メディアが差別のシステムの重要な役割を担っているからなのだ。
マサキチトセさんのこの言葉は実に明快で慧眼。
元カノを洗脳し、女が好きである私をころ.し、私たちを束縛し苦しめた差別思想は、例えばこういう形で社会に日々精力的にばらまかれつづけている。今も。
私の恐怖は個人の問題に還元されない。社会が同性愛を否定しなければ私たちの恋愛も問題なく運営されていたはずだ。
だから社会が怖くて憎い。お前のせいだ。お前さえいなければ。そう思う。
高校生の頃、私の理想の別れ方は「大学に入って互いの生活のすれ違い」だった。ありふれた恋愛のありふれた終わりを迎えるそれだけが望みだった。何度も言うけど異性愛をすべきだからという別れだけはなんとしても拒絶したかった。
それを個人の問題として矮小化されたり男女の恋愛と同様のものだと扱われたり軽く見られたりするのは、この恐怖を知らないからなのだ。絶望するまでもなく歪んだ社会が機能しているという恐怖を実感していないからなのだ。
わからないでしょう、恋愛の話でもないときに友人相手に財布ほしいなーと他愛ない話をしたら「彼氏に買ってもらえば?」と返されたときの恐怖なんかわからないでしょう。
異性同士が恋愛をして当然とされ、同性同士に恋愛がなくて当然とされ、異性と恋人関係になった途端に異性愛ロールに回収され単なる「男と女」の記号と認識され、私個人がほしいと言った財布すら「女が男に買ってもらう」なんて規範の内部に取り込まれ、たちまち規範にそぐわない「女を恋愛対象にする女」である私が削ぎ落とされる、この恐怖なんか。
社会がどれだけ異性愛規範を基準に動いて同性愛を排除するか。私がどれだけ女を愛したか。愛していながらどんな思いでころ.され敗戦し逃げて諦めたか。
わかんないよね。
悔しいんだよ。
私は男になんか回収されたくないんだよ。
空化は、女がよかった女が好きだ異性愛が憎いマジョリティーが憎いと喚く私を受け入れてくれる。好きなだけ吐き出してくれと言ってくれる。
「なんでこんな簡単なことが、できなくて、許されなくて、隠さなければいけなかったんだろう」という話を、勝手なものさしで測ることなく、ただ聞いてくれる。
財布の話をしたら「俺は絶対買わない!」って言ってくれた。最高。
空化とクリスマスイヴに東京の街を転々と歩き回ってきた。
私はずっと可視化されたくて、いないことにされたくなくて、思考タイムラグなく疑う余地なく世界に認識されたくて、戦ってなどいたくなくて、だからマジョリティーになりたいと思って24日に会う約束をした。
だけど見渡せばそこかしこに湧き出ている異性カップル。見える背中の数々はマジョリティーの強者性など頭の隅にも浮かべたことのないように堂々としている。
中身はそうではないのかもしれない。異性愛に見えても例えばMtXとパンセクカップルなのかもしれない。けれどそんなこと外見からではわからないだからマジョリティー様だと思い込んでしまう。私もその風景のひとつを飾っているのだと思うと耐えられなくて自分のプレイしてる「男女カップル」像をなるべく思考から追いやった。
その風景の中に仲よさげな(恐らく)男性二人を見つけた。カップルだったらいいなと思った。それも私の勝手な押し付けでしかない。自分の嫌なレッテル貼りを彼らにしているだけだ。でもこの異性愛地獄トーキョーの中、存在するだけで社会への抵抗になってしまう関係をプレイしてたら私が救われる。手を繋ぎたいのに繋げていないのだとしたら悲しい。じろじろと不躾な視線を彼らに与えてしまうのだけは嫌で不自然にならないように目を逸らした。
削られることが怖かった。
女を好きでありたかった私が強大な「異性愛」の洪水に巻き込まれ足元を奪われることが怖かった。
私がマジョリティー特権を得てしまうと戦っていた私に申し訳が立たなくて、後ろめたくなった。
私を削ってこない人がパートナーとして隣にいてくれるのがありがたくて、少しだけ落ち着いた。
削られたくない。削られた自分が可視化されてもなんの意味もない。もう二度とマジョリティーになりたいなんて言わないと誓った。
パートナーを作れると思ったのは、精神安定がほしくて、そのための信頼関係構築コストなら割けると思ったからだ。
付き合ってから次に会った日にパートナー契約内容確認会議をした。
まずモノアモリー関係だよね? という確認から。
浮気の定義を話し合うのは楽しかった。浮気相手像の性別如何で定義が変わったりしないことがありがたかった。まあ男となんか浮気したいとも思わないけど。
会議をしながら、「なんか『逃げるは恥だが役に立つ』みたいだな」と思ってた。
ドラマ版はまだ見てないけど、私が持ってる原作はセクマイ系のオフ会のくじ引きで貰ったものだった。連載初期から漫画読みのセクマイ界隈では話題だったね。
振り返ると「恋愛」という暗黙ルールに制約されるゲームで改めて契約内容確認会議をしようと思ったのは『逃げ恥』と『逃げ恥』を生み出した社会の空気を参考にしたからかもしれない。
私は、私たちは、どうしても社会の一員であり、意識的無意識的に社会の影響を受けて生きている。
私は女との「恋愛」を諦めたから男との「結婚」を見据えたとかそういうことではない。
そもそも結婚を視野に入れることのできるマジョリティー特権が今は憎くて仕方ない。
元カノを振ったとき「私はいつまでも私と付き合い続ける意思のない人と一緒にいてこれからいくつの出会いを無下にするんだろうって思ってた」と言ったら、「既にしてるよね……」と返されて、何百度めかの失望をした。
きみは女が男と付き合うべきだと思い込んでるから、私が男を拒んだことを「出会いの損失」としか呼べないんだろう。私は彼らに惹かれてるなどとは一言も言ってないのに。何度もきみを好きだと言ってきたのに。応えてくれるなら別れたくなんかなかったのに。
「じゃあ今度付き合う人は結婚前提ってこと?」と言われて、私の次の相手が男だと微塵も疑ってないのだなと思った。
私の言った「付き合い続ける」って一生を預けあう合意形成でもなければ公的行政契約関係でもない。今とここだけの刹那的関係だとおざなりに扱われないことだよ。
いっこも伝わらなかったな。
恋愛は諦めてない。というか元々単なる趣味のひとつだ。
ただ、社会にころ.される心配のない恋愛というものにどう向き合っていいかわからない。私は敗者になってしまったから。
私がこの恋愛を趣味として謳歌するだけで社会への屈服を実感させられることになる。自分への後ろめたさが増幅する。あんなに戦ってきたのにね。悔しさを忘れたくないのにね。私は難なく異性愛を楽しんでしまえるんだね。
「女は遊びだから☆」「親に孫の顔見せたいから……」「いちいち会社や人に説明するのが社会的に命がけで面倒だから」「結婚して社会的ステータスを得たいから」「かわいそうな独身という視線にさらされるのが耐えられないから」「福利厚生の恩恵に与れないから」、異性愛をしろと世間が言うからという理由で別れる可能性を考えなくていい異性愛の圧倒的強者ぶりを前に呆然とする。
また別の夢を見た。今度は直接的でわかりやすい。
小学校の昇降口だった。そこでは下駄箱を挟んだ両側に出口が設けられており、一方の出口に見知らぬ好みの美少女が、もう一方に10年ほど前付き合っていた彼氏が座っていた。
私は少女に強く惹かれて声をかけたいと思うのだが、躊躇しているうちに少女はさっさと外へ去ってしまった。眩しい日差しの下できらめく少女を私は未練がましく見送るのだった。
元彼は「強く恋しく思ったことのある男」という意味合いでたまに夢に出てくる。そんな男の存在を思い出すには10年も遡らなければならない。その間に惹かれた女は4、5人いる。夢に彼を引っ張り出さなきゃならなかったのは、自分好みの男など作り上げることもできないほど惚れたサンプルが少ないからだろう。
そして夢の中で彼に振り返って、そちらに行こうと思ったけれど、迷って立ち竦んだまま目が覚めた。
私は女を追いかけない。追いかけられない。彼女たちは去ってしまった。
もうひとつの出口はある。私は男の手を取れる。きっとただ迷ってるだけ。所詮はお前も異性愛を選ぶんじゃないかと自責の念が重たいだけ。私は負けた私を正しく弔う方法をまだ知らないだけだ。
そういえば中学3年生のとき「高校入ったら彼女がほしいなあ」と思っていたら、夢の中でとびきりかわいい彼女ができたことがあったな。花岡さんという人で、まあ高校の新入生名簿貰って真っ先に調べたもののそんな名前の人ついぞ会わなかったけど、社会や男に目もくれず私のことだけ見ていてくれる、髪が長くて背の小さな愛しい女の子だった。
もう少しだけ悲しませてほしい。限りなくいとおしかった彼女たちの後ろ姿をぼんやり眺めて感傷させてほしい。いつか立ち直れるから、立ち直れてしまう自分を社会への屈服と捉えることを許してほしい。
今は戦っていた自分への未練を思って事あるごとにあふれる涙に安堵している。
悔しさだけ残して後ろめたさを忘れる方法が知りたい。
異性愛社会が怖い(経過記録)
夢を見た。
父と父の友人が出てきた。二人とも私にとって安心できる存在だ。
しかし夢の中で二人は私をころ.すことを計画していた。正確にはころ.そうとしていたわけではなく、別の計画を実行するために致し方なしに私をころ.さねばならない状況になったのだ。
私は手にかけられそうになり、とてつもない恐怖を味わったがしかし、計画は頓挫し助かった。
それからは父も友人もいつも通り優しく接してくれた。
けれど私はあの恐怖が拭えずにいた。二人してまた私をころ.そうとしてくるのではないか。なにかあったらすぐに私をころ.せるだけの用意があるのではないか。
不信感が募り年月が過ぎた頃、私は二人の前で泣いてその恐怖をぶちまけた。怖かった、まだ怖い、と。
しかし二人は私の訴えにまるで無関心な様子で、号泣する私を何も言わず無表情にただ眺めていた。
そこで目が覚めた。
元カノの夢だと思った。
元カノが、私をその意図なくころ.そうとして、私はその恐怖に脅かされながらその後付き合いつづけていたのに、元カノはその重みをまるで理解しなかった。そういう夢だ。
私にとって「同性愛は存在してはいけなくて正しく異性と恋愛すべき」という、元カノのひいては社会権力の思想は、存在をころ.されるに等しいことだったのだ。
夢の中での父=権力の象徴としてのマジョリティー社会、父の友人=それに服従する元カノと解釈できるだろうか、と思った。
昔元カノの目の前で発作的に狂乱したことがある。「異性と恋愛すべき」という差別規範によって私たちの関係が紛い物と思い込まれること、壊されること、屈すること、その終焉が怖くて怖くて何を発声してるかもわからずただ発狂したことがある。元カノは呆然と眺めていた。
これは元カノの夢だ。寝る前に『ユーリ!!! on ICE』の全話感想を泣きながらつづっていたので間違いない。
ユーリの7話で号泣したとき、私はもうだめだと自覚した。
最近この手のものに弱すぎる。
同性愛を肯定してくれる価値観に弱すぎる。
先日もBL漫画を読んでいてぼろっと泣いた。↓ただこれだけの台詞に。
(『可愛い先輩の飼いころ.し方』市梨きみ p161)
だって元カノは隠さなければならないと厳しく私と自己を律したのだ。
ただ「同性愛は異常だから」という一点の理由で。「ドン引きされるだけだから」。
二度と女を恋愛対象とすることができなくなり、せめてこの弱さを薄めるだけの安定がほしくて男と付き合うことにした。
少しは気が晴れるかなと思ったら今度は「社会の弾圧に屈した自分」が悔しくてのたうち回ることになった。それで書いたのが前回の記事だ。
私はもう存在するだけで社会への抵抗になってしまうような関係を構築することができない。抵抗できる余力は残っていない。好きと言われて「他に好きな男がいるのかな?」とか「友達としてってことなのかな?」とか「この関係いつまで続くのかな?」とか常に不安でいたくない。
しかし百合漫画を読んだらもう女を愛せない自分が悲しくなって泣きそうになった。
王道恋愛少女漫画を読んだら異性愛のあまりのマジョリティー特権ぶりに打ちのめされた。
だめだ。
「同性への友情と恋愛感情があやふやになる思春期に同性と親密すぎる関係になって、成長したら勘違いの関係を終了させ健全に本番の異性愛を迎える」
私の戦いがこの呪いに回収されてしまうことが悔しくてならなかった。
私は女が好きなのに。女を好きでいたかったのに。ヘテロセクシズムのせいでホモフォビアのせいでお前らがファッションレ.ズとか勝手に認定してくるせいであんまり同性愛を無化しようと弾圧してくるせいでなんで私がそんな強者に都合のいいクソみたいな呪いをかけられなきゃならないんだ。
セクマイ系が多めの飲みに行ったら、「えっゲイなんだ? タチ? ネコ?」「女装しても本物の女には勝負で勝てないよね」と言い募る人がいた。
接客業の職場で、かわいくて気遣いやさんで始終笑顔の気持ちいい女性客がいるなーと目の保養にしてたら、その人が連れとの会話の中で成宮寛貴氏のことをネタにした。
「ゲイの友達ひとりはほしいですよね~」と悪意なく発言する人の声が聞こえた。
とらのあながカテゴリー分けに「BL・百合」の他に「ホモ・レ.ズ」という表記を使った。
企業が公然とそれをすることの意味を丁寧に説明した抗議メールを送ったら「差別用語だとわかっていてもその検索ワードを使う人が多いので商業上の理由でやめない」(意訳)と返信がきた。倫理ってなんだろうな。
すべてここ3ヶ月の出来事だ。
そんな社会に私は住んでる。
絶望するまでもない。とうの昔に痛みは麻痺した。ただこの社会は私の理想にほど遠い、そういう事実があるだけだ。
元カノのことが完膚なきまでにトラウマであると判明してから、友人数人にそれを打ち明けた。
「男女であるべきでしょ」と吐き捨てられたことが今も深い傷を残してるんだよね。同性愛は存在しないと思い込まれていたんだよね。訥々とそういう話をした。
しかし、なんだか今ひとつ伝わってないな、と感じることが多かった。私のこの傷が、そっくりそのままの重さで共有されてないな、「紛い物ですよ」のくだりを話すべきだったか?、なんだろうな。
例えば「それはさ、たとえ男女の恋愛だったとしてもひどいよね」と言われたり。
例えば「新しい恋愛をすればそっちで発生する不安にかかりつけることでそのトラウマはなくなるんじゃない?」と言われたり。
「えーっ、そこで異性愛が憎いとまで思っちゃうの?」と言われたり。私がとてもひどい事例だと思って話してるのにいまいち反応が薄かったり。
それは話し相手本人がセクマイである場合でもマイノリティー差別に関心が高い人の場合でも同様で、なんで伝わらないんだろうと不思議だった。
5人めに「やっぱり伝わってないなあ」と首をひねったとき、やっと腹から理解した。
同性愛が社会に無化されるヘテロセクシズムの恐怖の手触りは、言葉を尽くしただけでは基本的に「わかってもらえない」。
「男女であるべきでしょ」の呪いも「所詮紛い物ですよ」の呪縛も「友達として好きだよ」の煮え湯も全部、日々社会権力がどれほど同性愛をころ.そうとしてくるかリアルな恐怖として実感しなければわからない。これらの言葉に込められた意味やその背景は、文字面だけでは伝わらない。
元カノが勝手に個人的に同性愛がおかしいと思い込んだわけじゃない。
社会が丁寧に「同性愛は存在しない紛い物だ」「異性愛をしなければならない」「マジョリティーが絶対的に正しい」と彼女に刷り込んだから、その社会の末端で私と彼女の恋愛はまさにころ.されんとしていたのだ。父たる社会の権力に。
「不快な思い」とは何か 日本マクドナルドの対応から考えるメディアと差別の関係
http://mess-y.com/archives/38917
>メディアのコンテンツが度々批判を浴びるのは、単にそのコンテンツ自体が不快であるとか、それを見て傷つく人がいるとか、そういう理由ではない。メディアが差別のシステムの重要な役割を担っているからなのだ。
マサキチトセさんのこの言葉は実に明快で慧眼。
元カノを洗脳し、女が好きである私をころ.し、私たちを束縛し苦しめた差別思想は、例えばこういう形で社会に日々精力的にばらまかれつづけている。今も。
私の恐怖は個人の問題に還元されない。社会が同性愛を否定しなければ私たちの恋愛も問題なく運営されていたはずだ。
だから社会が怖くて憎い。お前のせいだ。お前さえいなければ。そう思う。
高校生の頃、私の理想の別れ方は「大学に入って互いの生活のすれ違い」だった。ありふれた恋愛のありふれた終わりを迎えるそれだけが望みだった。何度も言うけど異性愛をすべきだからという別れだけはなんとしても拒絶したかった。
それを個人の問題として矮小化されたり男女の恋愛と同様のものだと扱われたり軽く見られたりするのは、この恐怖を知らないからなのだ。絶望するまでもなく歪んだ社会が機能しているという恐怖を実感していないからなのだ。
わからないでしょう、恋愛の話でもないときに友人相手に財布ほしいなーと他愛ない話をしたら「彼氏に買ってもらえば?」と返されたときの恐怖なんかわからないでしょう。
異性同士が恋愛をして当然とされ、同性同士に恋愛がなくて当然とされ、異性と恋人関係になった途端に異性愛ロールに回収され単なる「男と女」の記号と認識され、私個人がほしいと言った財布すら「女が男に買ってもらう」なんて規範の内部に取り込まれ、たちまち規範にそぐわない「女を恋愛対象にする女」である私が削ぎ落とされる、この恐怖なんか。
社会がどれだけ異性愛規範を基準に動いて同性愛を排除するか。私がどれだけ女を愛したか。愛していながらどんな思いでころ.され敗戦し逃げて諦めたか。
わかんないよね。
悔しいんだよ。
私は男になんか回収されたくないんだよ。
空化は、女がよかった女が好きだ異性愛が憎いマジョリティーが憎いと喚く私を受け入れてくれる。好きなだけ吐き出してくれと言ってくれる。
「なんでこんな簡単なことが、できなくて、許されなくて、隠さなければいけなかったんだろう」という話を、勝手なものさしで測ることなく、ただ聞いてくれる。
財布の話をしたら「俺は絶対買わない!」って言ってくれた。最高。
空化とクリスマスイヴに東京の街を転々と歩き回ってきた。
私はずっと可視化されたくて、いないことにされたくなくて、思考タイムラグなく疑う余地なく世界に認識されたくて、戦ってなどいたくなくて、だからマジョリティーになりたいと思って24日に会う約束をした。
だけど見渡せばそこかしこに湧き出ている異性カップル。見える背中の数々はマジョリティーの強者性など頭の隅にも浮かべたことのないように堂々としている。
中身はそうではないのかもしれない。異性愛に見えても例えばMtXとパンセクカップルなのかもしれない。けれどそんなこと外見からではわからないだからマジョリティー様だと思い込んでしまう。私もその風景のひとつを飾っているのだと思うと耐えられなくて自分のプレイしてる「男女カップル」像をなるべく思考から追いやった。
その風景の中に仲よさげな(恐らく)男性二人を見つけた。カップルだったらいいなと思った。それも私の勝手な押し付けでしかない。自分の嫌なレッテル貼りを彼らにしているだけだ。でもこの異性愛地獄トーキョーの中、存在するだけで社会への抵抗になってしまう関係をプレイしてたら私が救われる。手を繋ぎたいのに繋げていないのだとしたら悲しい。じろじろと不躾な視線を彼らに与えてしまうのだけは嫌で不自然にならないように目を逸らした。
削られることが怖かった。
女を好きでありたかった私が強大な「異性愛」の洪水に巻き込まれ足元を奪われることが怖かった。
私がマジョリティー特権を得てしまうと戦っていた私に申し訳が立たなくて、後ろめたくなった。
私を削ってこない人がパートナーとして隣にいてくれるのがありがたくて、少しだけ落ち着いた。
削られたくない。削られた自分が可視化されてもなんの意味もない。もう二度とマジョリティーになりたいなんて言わないと誓った。
パートナーを作れると思ったのは、精神安定がほしくて、そのための信頼関係構築コストなら割けると思ったからだ。
付き合ってから次に会った日にパートナー契約内容確認会議をした。
まずモノアモリー関係だよね? という確認から。
浮気の定義を話し合うのは楽しかった。浮気相手像の性別如何で定義が変わったりしないことがありがたかった。まあ男となんか浮気したいとも思わないけど。
会議をしながら、「なんか『逃げるは恥だが役に立つ』みたいだな」と思ってた。
ドラマ版はまだ見てないけど、私が持ってる原作はセクマイ系のオフ会のくじ引きで貰ったものだった。連載初期から漫画読みのセクマイ界隈では話題だったね。
振り返ると「恋愛」という暗黙ルールに制約されるゲームで改めて契約内容確認会議をしようと思ったのは『逃げ恥』と『逃げ恥』を生み出した社会の空気を参考にしたからかもしれない。
私は、私たちは、どうしても社会の一員であり、意識的無意識的に社会の影響を受けて生きている。
私は女との「恋愛」を諦めたから男との「結婚」を見据えたとかそういうことではない。
そもそも結婚を視野に入れることのできるマジョリティー特権が今は憎くて仕方ない。
元カノを振ったとき「私はいつまでも私と付き合い続ける意思のない人と一緒にいてこれからいくつの出会いを無下にするんだろうって思ってた」と言ったら、「既にしてるよね……」と返されて、何百度めかの失望をした。
きみは女が男と付き合うべきだと思い込んでるから、私が男を拒んだことを「出会いの損失」としか呼べないんだろう。私は彼らに惹かれてるなどとは一言も言ってないのに。何度もきみを好きだと言ってきたのに。応えてくれるなら別れたくなんかなかったのに。
「じゃあ今度付き合う人は結婚前提ってこと?」と言われて、私の次の相手が男だと微塵も疑ってないのだなと思った。
私の言った「付き合い続ける」って一生を預けあう合意形成でもなければ公的行政契約関係でもない。今とここだけの刹那的関係だとおざなりに扱われないことだよ。
いっこも伝わらなかったな。
恋愛は諦めてない。というか元々単なる趣味のひとつだ。
ただ、社会にころ.される心配のない恋愛というものにどう向き合っていいかわからない。私は敗者になってしまったから。
私がこの恋愛を趣味として謳歌するだけで社会への屈服を実感させられることになる。自分への後ろめたさが増幅する。あんなに戦ってきたのにね。悔しさを忘れたくないのにね。私は難なく異性愛を楽しんでしまえるんだね。
「女は遊びだから☆」「親に孫の顔見せたいから……」「いちいち会社や人に説明するのが社会的に命がけで面倒だから」「結婚して社会的ステータスを得たいから」「かわいそうな独身という視線にさらされるのが耐えられないから」「福利厚生の恩恵に与れないから」、異性愛をしろと世間が言うからという理由で別れる可能性を考えなくていい異性愛の圧倒的強者ぶりを前に呆然とする。
また別の夢を見た。今度は直接的でわかりやすい。
小学校の昇降口だった。そこでは下駄箱を挟んだ両側に出口が設けられており、一方の出口に見知らぬ好みの美少女が、もう一方に10年ほど前付き合っていた彼氏が座っていた。
私は少女に強く惹かれて声をかけたいと思うのだが、躊躇しているうちに少女はさっさと外へ去ってしまった。眩しい日差しの下できらめく少女を私は未練がましく見送るのだった。
元彼は「強く恋しく思ったことのある男」という意味合いでたまに夢に出てくる。そんな男の存在を思い出すには10年も遡らなければならない。その間に惹かれた女は4、5人いる。夢に彼を引っ張り出さなきゃならなかったのは、自分好みの男など作り上げることもできないほど惚れたサンプルが少ないからだろう。
そして夢の中で彼に振り返って、そちらに行こうと思ったけれど、迷って立ち竦んだまま目が覚めた。
私は女を追いかけない。追いかけられない。彼女たちは去ってしまった。
もうひとつの出口はある。私は男の手を取れる。きっとただ迷ってるだけ。所詮はお前も異性愛を選ぶんじゃないかと自責の念が重たいだけ。私は負けた私を正しく弔う方法をまだ知らないだけだ。
そういえば中学3年生のとき「高校入ったら彼女がほしいなあ」と思っていたら、夢の中でとびきりかわいい彼女ができたことがあったな。花岡さんという人で、まあ高校の新入生名簿貰って真っ先に調べたもののそんな名前の人ついぞ会わなかったけど、社会や男に目もくれず私のことだけ見ていてくれる、髪が長くて背の小さな愛しい女の子だった。
もう少しだけ悲しませてほしい。限りなくいとおしかった彼女たちの後ろ姿をぼんやり眺めて感傷させてほしい。いつか立ち直れるから、立ち直れてしまう自分を社会への屈服と捉えることを許してほしい。
今は戦っていた自分への未練を思って事あるごとにあふれる涙に安堵している。
悔しさだけ残して後ろめたさを忘れる方法が知りたい。
『蒼穹のファフナー』竜宮島は何故同性愛に寛容か?
※真面目の皮を被ったネタ記事です
※てかネタ推しでいこうと思ってたのに生半可な同性愛関連知識と自分が屁理屈屋なせいで真面目になってしまった
※タイトル通り竜宮島が同性愛に寛容であることは自明のこととして扱っています。
※一騎→総士を前提に論を進めます(総士の感情はどうであっても話を進められるので無視します)
(11/14追記。
最近「ファフナー ホモ」の検索で辿り着かれることが多かったのと、記事それ自体がなんか恥ずかしくなってしまって一週間下げてました。
検索はネタ的意味なんだろうなー萌えてるわけじゃなくて「面白がりたい」んだろうなーアニメキャラが異性愛者でなさそうなくらいそんな大したことじゃねーよむしろ全員異性愛者なほうが異常だろとか思ってしまってイライラして。
別に検索するくらいいいけど私がそれを観測したくないなと思ったので。
しかし今日ついったー見てたら前回の記事がRTされてきてびっくりしました。
なんか褒めてもらってて嬉しくて、まあホモネタくらい今さら気にすることじゃないかと思い直しました。(だからといって受け入れられるわけじゃないけど)
恥ずかしさを修正してから上げ直そうかと思ったら読みづらいしあまり修正するとこなかったし面倒だしもうすぐ20話始まるしほぼそのまま上げます。
こんな前提でよければ、どうぞ。これを私の意図するところの「ネタ」として読んでくれる人がいたらいいな、と思います。)
それでは。
★竜宮島は同性愛に寛容か?
まず竜宮島が同性愛を受け入れているという根拠を考察します。
登場人物の態度やようすを見てみます。
まず一騎が総士への好意をあけっぴろげすぎです。全く隠そうとしません。
もし竜宮島にホモフォビア(同性愛嫌悪)が存在したり、「皆が皆異性愛者である」という合意があったならこうはいかないでしょう。
少なくとも父親である史彦が否定したならばもっと意識して隠そうとするはずです。
ホモフォビア(同性愛嫌悪)の存在する社会において、人は同性愛者だと疑われる言動を避けたがります。
本当に同性愛者自認である場合でなくとも差別の対象にはなりたくないのが一般でしょう。同性愛者自認であるなら尚のこと。
過度な同性への思慕があると自他に認められた場合、本人によって恋愛感情が否定されます。
人前で堂々と「お前が行くなら俺も行く」などとは間違っても言えないでしょう。
また竜宮島では保守的な家族だけではなく多様な生き方が認められています。
容子さんは婚歴がなく独身でシングルマザーです。
翔子についてアルベリヒド機関から、カノンについてアルヴィスから、それぞれ言わば公的にシングルマザーのお墨付きを貰っているわけです。
シングルマザーであることのハンデや周囲からの奇異の目も特にあるようには見受けられません。
溝口さんは独身で子供もいません。それでも周囲から結婚しろなどの抑圧はなく、のびのび暮らせているようです。
つまり竜宮島は「男女が番って子供を育てる」規範がなく、それ以外の生き方を認める社会が形成されているということです。
そうなると、同性カップルも、ひいては同性愛者個人も、同様に「オカシイ」と言われない環境である可能性が高いのではないでしょうか。
★何故受け入れる環境が出来たか?
では竜宮島は何故同性愛に寛容なのでしょうか? 二つの仮説が考えられます。
単純には、「日本も2100年くらいには同性愛を受け入れている」説。
世界では今LGBT、セクシャルマイノリティの人権問題が急速に注目されつつあり、それは日本でも同様です。
2100年くらいには同性婚が法制化している可能性も充分にあります。
これなら今より理解も進んでいそうです。
では100年後もあまり受け入れられていないと仮定した場合。
そもそも同性愛は日本でどのように忌避されてきたか?
日本で同性愛差別が確立されたのは大正期ですが、そこで差別を正当化してくれるのは、「神への冒涜だ」とする宗教規範ではありませんでした。
『生殖イデオロギー』です。
即ち、「生殖(子作り)こそ生物の至上目的であり」、「性欲の本来の目的は生殖である」とする価値観です。
その目的論的世界について、『性現象論』(加藤秀一)を引用してみます。
性欲があって、男女間の性交が行なわれて、その結果として生殖が起こる(中略)。これは事実である。
ところが、この「結果」という言葉を「目的」という語に入れ替えるなら、話はまったく変わってくるのだ。(中略)
性欲―生殖という出来事の連鎖を、原因―結果という解釈枠組みではなく、手段―目的という解釈枠組みに当てはめる思考は、必ずその出来事そのものに先立って目的を定めた存在を隠し持っている。(中略)
これはいわば、自然そのものに意志を認めるような世界観であろう。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p37-p38/加藤秀一)(中略は引用者による)
つまり「自然」に意志を認め、単に性欲の結果として生殖が起こるのではなく、生殖のために性欲が存在するという解釈。
このような目的論を引くと、「同性愛は子孫を残せない」→「自然に反する」→「異常である」と差別を正当化することができるのです。
ですが、「反する」ような「自然の意志」なんて端からありません。
キリンの首が長いのは単に首の短いキリンが環境に適応できなかっただけで、高い木の葉を食べるために長くなったわけではないのです。
生物の性質には、あらかじめ与えられた方向や、ましてや目的などというものはない。ただランダムに繰り返される突然変異のなかから、環境に適応したものが生き残っていくだけだ。
(『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』p39/加藤秀一)
ファフナーの話に戻ります。
特筆すべきは「30年間ほとんどの島民が受胎能力を失っていた」ことです。
ちょっと思考実験になります。
竜宮島では『生殖イデオロギー』が正論面して跋扈できないのです。
子孫を産めない人たちが多数派となることで、産める特権を振りかざして「産めない人間は欠陥だ」と糾弾できなくなったんですね。だって糾弾したら自身も欠陥だと認めなくちゃならないから。
そこでやっと『生殖イデオロギー』が欺瞞だと気づけるはずです。生殖と性行為は必ずしも結び付くものではないし、産めないからといって人間性に欠陥を抱えるわけではないと。
しかしアーカディアンプロジェクトの理念が「日本人と文化の保存」なので当然子孫を残していかねばなりません。
自然受胎が出来ない以上、科学に頼るしかない。
そのため、人工授精技術を発達させ里子制度を整えました。
子供を殖やすのに男女が番って性行為する必要がないのです。
(現代日本にも里子の養子縁組制度はありますが、独身ではまず養親として認められません。竜宮島の里子制度はかなり緩いです)
異性愛と同性愛の相違点は、性行為によって子を成す可能性があるかないか、ただ一点のみです。
竜宮島の場合、その相違点さえ消滅しているわけです。
そんな中「同性愛」が「確認」されると島民は同性愛を差別する論理(生殖イデオロギー)を持たないことに気づき、認識が改まっていったはずです。
竜宮島が同性愛を受け入れる環境になった理由は、おおよそそんなところではないでしょうか。
つまり「2100年くらいには日本も受け入れている」説もしくはこの30年間のどこかで「同性愛」が「確認」されるタイミングがあったのだろう、というのが結論です。
★まとめ
・一騎の総士への思慕が周囲に全く抑圧されていない
・竜宮島は多様な生き方が認められている、同性愛もそのうちのひとつではないか
・竜宮島は30年間受胎能力を失っていたので生殖能力を理由に同性愛を差別できない
・それか単純に未来人の人権意識が高いかの理由で竜宮島は同性愛に寛容なのだろう
さて。
そんな感じで全体的に根拠は薄弱ですがネタということを逃げ道に寛恕ください……。
いくら人工授精制度が発達したと言っても、「自然に」「受胎能力のある男女の性行為によって子供が出来る」ことへの信仰はあるようだし。
ふわふわした「だったらいいな!」って程度の考察でした。あんまり読む人いないだろうしこれでいいのです。
何でこんなことまじめに考えてるんだろうってちらとは思ったけど結局そこに注目したくなるのは私の習い性ですね。
そういえば先日の電通の調査によると人口の3.1%はレズビアンかゲイかバイだそうで。
作中で名前の出てくるキャラが約120人なので、その中の3,4人は同性を恋愛対象にできるということになるのよね。
じゃあ一騎と総士と芹ちゃんと織姫ちゃんがそうでよくね?ってなるよね。
★余談。というか補論?
「同性愛差別って生殖イデオロギーだけじゃなくホモソーシャルからも支えられてるよね?」って話。
今回あえてホモソーシャルにおける男性同性愛者排除理論は無視しました。
何故ならホモソーシャルに必要な「男らしさ」の価値観がファフナーにおいてメタ的に意味をなしていないと判断したからです。
そもそもホモソーシャルとは、「ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする、男性同士の強い連帯関係のこと」です。(wiki)
ファフナー無印第一期では、「男らしさ」の価値観が竜宮島にも存在していることが確認されます。
広登「そういうのってさー、男らしくないんじゃないのー?」
(『蒼穹のファフナー』第10話)
一騎「遠見。悪いけど、はずしてくれないか」
真矢「え、なんで?」
総士「なんでもだ」
(中略)
真矢「男の子……か」
(『蒼穹のファフナー』第21話)
しかしこちらの時代が進み(2004年→2015年)、EXODUSで制作スタッフは作劇上意図的にジェンダー観を更新してきました。
詳しくは割愛しますが、わかりやすいところで言うと無印第21話とEXODUS第11話を比べれば一目瞭然です。
EXODUSでは今後も「男らしさ」「女らしさ」を強調しないのではと推測できます。
そうなると論を進める根幹が怪しくなってしまいます。「竜宮島にホモソーシャルが存在するか?」というところが。
10年という時を経た結果の錯誤ですね。メタ的に意味をなしていないというのはそういうことです。
よって考慮に入れませんでした。
まあホモソーシャル社会では同性愛の否定によってこそ「男らしさ」が保たれるのですから、自身に同性愛感情があることを積極的に否定していく必要があるわけですが、ファフナーではその気配はゼロです。
「いや別に俺総士を恋愛的に好きなんじゃなくてね」等という“弁解”を一騎は一切しません。
またホモソーシャルには女を獲得できない男を劣等として扱う性質もありますが、溝口さんが独身でのびのびしていられるところを見ても、やはりホモソーシャル価値観は薄いのではないかと考えられます。
メタなこと言い出したら切りがないし、「竜宮島は現実日本の都会の価値観を反映してるけど良いとこ取りで都合の悪い価値観は無視」と言いたいのが正直なところですが。
なのでホモソーシャルの同性愛排除を考慮しなかったのは単純に情報が少ないからという点もあります。
ともあれ「ファフナーと竜宮島と異性愛至上主義」については今後とも追いかけていきたいと思います。
↓引越し。内容はまったく同じ。
『蒼穹のファフナー』竜宮島は何故同性愛に寛容か?
引越し
NGワードで弾かれ弾かれ!!
もういい!引っ越す!
↑新しいブログに引っ越しました。
2007年か2008年からこのブログでやってたけど更新停止します。
たぶん消さないとは思う。消したら気まぐれ。