胸先三寸、って誤用らしいけど語呂の良さ優先しちゃった。
人との出会いは概ね偶発的だけど、作品及び何らかのコンテンツとの出会いでは大体どこかで自ら干渉しにいかねばならない。
そこにときめく。
たとえ広告に踊らされようと、最終的に手を出すか出さないかを決めるのは自分で、自ら手に取ったっていう『感覚』が重要だから。
そこには『少しすれ違っていれば出会わなかったかもしれない』というパラレルワールドの末端が見え隠れする言い知れぬ光輝がちらついている。
人との出会いにもそれは存在するけど、この甘いまでに明瞭な光輝の『感覚』はほとんどコンテンツとの出会いでないと味わえない。
なぜならば必ず一人対一コンテンツの関係になるから。
厳密に言うなら、一行動対一コンテンツか。
つまり、人との出会いでは「何らか別の目的のために行動した結果出会う」ことが大抵であるけど、コンテンツとは「そのコンテンツを得ることを目的として行動し、それを享受する」という過程が大概存在するから。
たまたま同じ学校に同じ学年で入学してたまたま同じクラスになった人とたまたま前後の席だから仲良くなった、よりも、たまたま宣伝文句を見かけて気になってたまたまセールだったからちょっと衝動的に買ってみた(ココ!)、にときめくの。
前者のたまたま仲良くなった、は、他の誰とでも代替可能だったはずだけど、後者は別のコンテンツで互換するには一から違う宣伝文句を見なければならないわけで。
「ワタシがこれを目的物として手を伸ばしたからこのコンテンツに出会えた」
「ワタシが動かなければこのコンテンツには会えなかった」
自分の一行動が出会えたかどうかを左右する、その『感覚』。
パラレルワールドの分岐点を自ら選択したと、その場ですぐわかる。
「大ハマりしたコンテンツとわたし」の関係性を振り返って分析したくなる原動力は、そのときめきからきてるなあ。
ナンパや出会い厨みたいなのは、「出会うこと」が目的なので、すなわち代替可能だからあまりときめかない。
余談だけど、ネットの婚活サイトに登録して相手探しって行為にならすっごいときめく。
お誘いメールが何百件と来るからシビアにざくざく切って返信する相手を吟味しなければならない。
その切っていく作業の中で、例えば誤って削除しちゃった人はもしかするととても上手くやってける人だったかもしれないのに、まあいっかと次へ進んでしまえる気軽さとかそのワンクリックの無情さとか考えるのが好きなのよね。
ナンパや出会い厨と違うのは目的が「人生かけたパートナー探し」だからかな。
というかこの話、人間関係において受動的な自分を晒してるだけかもね。
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自分の胸先三寸で
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